■第2席


今回親鸞聖人の法事であります報恩講ですので、この南無阿弥陀仏ということで、ここからなるべく外れないようにということで、引き続きお話しをさせていただこうと思います。
 一席目で確かめさせていただいたのは「南無・阿弥陀仏」この南無で切るということ、阿弥陀仏に南無すると、結論はこうなんですけども、私たちはその阿弥陀仏以外に、南無(中心に)しているんです。健康であるとか、お金であるとか、やっぱり南無するものが、いっぱいあるんです。阿弥陀仏以外に。
 そして、内容としては思い通りにしたいということが、私たちが日ごろ追い求めていることであります。「南無・思い通り」これで生活しています。しかし、思い通りに出来るということの代名詞である、王様ですね、仏は王様の位をすてて、阿弥陀仏になられました。

「国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。」(真宗聖典10頁)

 お釋迦様もまた、王子様の位をすてて、真実を求められました。だから私達は思い通りにしたいと、つまり王様を目指している限り、実は仏と全く反対の方向を目指しているんでないかと、そのことをまず、お話させていただきました。
  
 私が浄願寺へ入寺した頃、何人かのお年寄りから聞いた言葉ですが、

「小さいときからなあ、阿弥陀さんの前では、願い事を言うもんやないって、そういうふうに教えられてきたもんや」

って、そういうふうに仰います。これは非常に大事なことでして、お互いにそういうことを言い交わしてきた。考えてみますと今日の宗教心というのは、願い事ばっかりですよね。初詣なんか、チャリンとお賽銭をあげて、願い事の何と多いことか、お金が儲かりますように、健康でありますように、病気が治りますようにと、私たちから出てくる願い事というのは、所詮、思い通りにしたい、ということです。(それだけ現代人は追い込まれているのですが…)でもここら湖北では「仏さんの前では願い事をするもんやないぞ」と言ってきたんですよね。そうじゃないということを日々、確かめてこられたんだと思います。

 こんな本に出会いました、星新一というSF作家、SFですから空想的なお話なんです。これは星さんが一般の方からいろんな作品を募集しまして一冊の本にまとめられた中に、面白いのが載ってたんです。 「みんなの願い」という短編です。
 どんな話かいうと、ある時、普通に道を歩いていたら、神の使いから声が聞こえてきました。「私は神の使いです」って。みんなの脳に直接声が聞こえるのでみんなキョロキョロしています。
「今回地球が一周期を迎えました。その記念日にあたりまして、皆さんの願いごとを一つ叶えてあげましょう。一週間の時間をあげますから、その一週間のうちであなたが願っていることを一つ神様に念じてください。そして一番多かった願いごとを、神様は叶えてくださいます。」   
ここで、その声は消えました。
 その声はすべての者に聞こえていましたから、職場も学校も街中もそのことでもちきりです。赤ちゃんからお年寄りまで、世界中大騒ぎです。ここからそのまま読みますね。

 さて、その日から世界中は大騒ぎとなった。まず声が世界中の至る所に漏れることなく届いている上に、耳の不自由な者にまで聞こえていることが判明したことによって不思議な声の信憑性が高まり、翌日には誰も疑う者がいなくなった。なにしろ世界中の人々が一様にこの降ってわいたような出来事に注目しているのだ。テレビを点けたならばどこの局でも『特集・地球に必要なもの、不必要なもの』などの特別番組で願い事について放送している。ブラウン管の中の政治家、各方面の専門家、各方面の評論家などがしかめっ面をしてもっともらしいことを言っている…。「今地球に必要なのは資源ですよ。永久に使用できて、しかも安全なエネルギーを与えてもらうべきです」
「何を言っているのですが。資源といえば地球そのものが資源ではないですか。やはり失われてしまった地球の緑を回復すべきです」
「そう言いますが、ではごみの問題はどうするのです。ごみ処理問題こそ何より優先して解決せねばなりません」
「平和な世の中。この一言です。世界中にある武器類を一切消去してもらいましょう」 
 もちろん話題を独占しているのはテレビの中だけではない。学校に行っても、会社に出勤しても、近くのスーパーマーケットに買い物に出かけても話されるのは願い事についてだった。そうしているうちに、願い事に染まった一週間は過ぎた。人々はそれぞれに願い事を決め、神に向かって念じた。願い事を済ませた人々は一様に緊張して神様の願い事を待った。・・・・そしていよいよ発表の時がやって来たのだった。「地球の皆様今日は。私の声が聞こえていますでしょうか」
 一週間前と同じ不思議な声が聞こえて来た。もちろん今度は誰も驚かない。みんなこの時を待っていたのだ。
「私は先日皆様に御挨拶させていただいた神の使いでございます。さて、本日は以前からお知らせした通り、神が願いを叶える件につきまして願いが決定したので発表させていただきます」
「一体どんな願いが叶うのだろう」
「自分の願いが叶えばいいな」
 みんな一心に耳を澄ましている。
「こちらといたしましてはおそらく色々な願いがあるだろうと思っておりましたが、意外にまとまっておりました。いえ、これは余談です。それでは発表いたします」
 人々が『意外にまとまっていた』という願い事について「もしかしたら他のみんなも自分と同じ願いを・・・・」などと勝手に想像しているうちに神の使いは言った。
「今度神が叶える願い事は・・・・人間以外のほとんどの生物の願いである『人間を地球上から消滅させて下さい』というものに決定いたしました。皆様、次の一周期を目指して地球を大切にして下さい。それでは御機嫌良う」
 そんなわけで、人間たちが最後に聞いたのは動物たちの歓喜にも似た鳴き声だった。

星新一編『ショートショートの広場8』(講談社文庫)より
 
とまあ、こういうオチなんですが。これSFの空想話ですけど、私たちに問題提起をしていると思うんです。
 考えてみますと、もっと便利に、もっと快適に、もっと豊かにと得手勝手な願い事の連発で生きる私達人間が、こんな地球にしてしまったんですよね。

「三帰依文」で、「まさに願わくは衆生とともに」って三回も唱和します。「願わくは」の上に「まさに」という言葉を仏教は大事にしているんです。「衆生」とは、言うまでもなく生きとし生けるもの、諸々の生きるものです。人間だけではなく、動物も木も草も、植物も全ての生きるものとともに、これが仏教の、「まさに願わくは衆生とともに」という課題なんです。この言葉は決して理想ではなく、この言葉から絶えず問われてくるんだと思います。「南無・思い通り」と生きる私たち一人ひとりが…。

親鸞聖人は、

「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」

と言われます。親鸞聖人は私の都合を何とかして欲しい、どうか阿弥陀さん…。そんなことに南無しておられません。世の中というところに立っておられます。

 また、こういう素敵なお話も聞かして頂きました。アメリカのインデアンの人たちは、こんなふうに考えていたそうです。先祖からのいただきもの、大自然の恵みとか財ですね、これは子孫からのあずかりものであると。

 あるいは、私事で恐縮ですけども、私の母方のお爺さんで凄く元気な人だったんですけど、九十八歳まで頑張ってくださいました。本当に元気なお爺さんでした。そのお爺さんが、九十五ぐらいの時にちょっと痴呆になられたんです。今は認知症というんですね。その時に僕に対して遺言がありました。

「長浜の風景を壊さんといてくれよ」

 痴呆になっている分、よけいに重いんだと思います。頭で考えて「ちょっと座れ、あのなあ」と言うんじゃないんです、痴呆になって語るということは、「いのち」のところで語っておられるんだと思います。何か通じるところがあると思うんです。インデアンの人たちと。それこそ一人ひとりの「南無・思い通り」がどれほど地球の風景を壊してきたことか…。

あらためて頂き直したいと思うんです。
 
「小さいときからなあ、阿弥陀さんの前では、願い事を言うもんやないって、そういうふうに教えられてきたもんや」
「まさに願わくは衆生とともに」
「子孫からのあずかりもの」
「風景を壊さんといてくれよ」

というこれらの言葉を。
 
 「南無・思い通り」ということでもう少し考えてみたいと思います。面白い漫画があります。作者の、のむらしんぽという方は、仏教の方も勉強されていて、「サンガ」(東本願寺真宗会館 首都圏機関紙)で連載してくださっている先生です。なんてことない四コマ漫画なんですが、考えさせられます。

 こういう四コマ漫画なんですけども、最後の四コマ目を見て、何かほっとしませんか?私たちが本当に思い通りにしたいということだけで生きているならば、この四コマ目に感じるものなんかないと思うのです。何か深いところで感じるんですよね…。
 三コマ目までは言うまでもなく

 一コマ目は、
 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」織田信長です。

 二コマ目は
 「鳴かぬならなかしてみようホトトギス」豊臣秀吉です。

 三コマ目は
 「鳴かぬならなくまでまとうホトトギス」徳川家康です

 それぞれの将軍の性格を巧みに、ホトトギスで表しています。これは、三大将軍のことなんですけど、よく考えてみるとこの三コマは、私たちの日々の在り方であると思うんです。何とかして相手を鳴かそうとしている私たちの姿です。鳴かすということは、自分の言うことを聞かせたいということです。思い通りにしたいということです。
 
 例えば「鳴かぬならなくまでまとうホトトギス」徳川家康の時もあります。「そのうちあの人も変わってくれるやろ」と。

 或いは「鳴かぬならなかしてみようホトトギス」豊臣秀吉の時もあります。「あの人を何とかして変えてやろう」と。

 最後は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」織田信長です。「もう知らん」と意識の上で殺してしまいます。

 しかし、この四コマ目が「鳴かぬなら、それでもいいよ、ホトトギス」です。
 
 私たちは思い通りにしたいということで、この三コマを行ったり来たりしているようですけども、こういう四コマ目に、ほっとするというか、共感するものを持っているんですよね。これを親鸞聖人は「本願」と言われているように思います。今、流行の宗教というのは、三コマだけを対象にして、あなたの思い通りになりますよ…という、そんな売り文句ばっかりではないでしょうか。仏教というのはこの四コマ目を、たずねてく教えだと思います。こんな言葉があります。

浄土真宗は煩悩に応えるのではなく、菩提心に応えるのである(竹中智秀)
 
 もう一つですね、さきの豊臣秀吉ですが、私たちにとりまして、長浜城でございますので、非常に親しみあります、秀吉の遺言、ご存知ですよね。
 
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」です。

秀吉と云えばもう成功者、サクセスストーリーです。さっきの言葉で言うと、王様です。「お金」「健康」「思い通り」を殆ど手に入れた人です。
その人の遺言が、
 
「夢のまた夢」

です。ここを聞かなあかんと思います。願い事をどんなに手に入れても、死の間際には「夢のまた夢」です。本願に遇えなかったら、一代かけてあれだけのことを成し遂げても、人生は夢のまた夢です。

 次に「ワニくんのおおきなあし」という絵本を紹介したいと思います。このワニくんは足が大きいというのが悩みなんです。何とか足が小さくなるようにって励んでいるんですが…。読みますね。

画像をクリックすると大きくなります。

↑表紙

↑ぼくの あし
どういう わけか
みんなより ずっと おおきい

↑あいたっ!
また がびょうを
ふんづけて しまった
これも おおきな あしの せい

↑まちなかに でると
なんかいも あしを
ふまれて しまうし…

↑エレべーターの ドアーには
あしの さきを はさまれて しまう
しらない おじさんにまで 
「こりゃあ でっかい あしだ」
なんて いわれるんだ

↑このまえなんか
みちに はみだした あしの うえを
くるまが とおりすぎて いくんだもの

↑みずで あらえば
すこしは ちぢむかと おもって
せんたくきで ジャブ ジャブ ジャブ…
ロープに ぶらさがって
かわかして みたけれど
せんたくもののようには ちぢんで くれない

↑ひやせば ちぢむかと おもって
れいぞうこに あしを つっこんでいたら…
しもやけに かかって
よけい おおきく なっちゃった

↑あーあ
なんとか あしが ちいさく ならないかなあ
かみさま
ねてる あいだに
あしが ちいさく なりますように…

↑あしの おおきさは そのまんま
でも よくよく かんがえてみると
あしが おおきいって ことは
わるい ことばかりでも ないよなあ

↑おおかぜの ときには
この おおきな あしが
ぼくを しっかり ささえて くれるし…
みずの なかでも
おおきな あしの おかげで
とても はやく およぐことが できる

↑ごめんね ぼくの おおきな あし
ちいさく しようなんて かんがえて
これからも よろしく
ぼくの おおきな あし

 この絵本は、ワニくんの足が小さくなって良かったねという話ではありません。私たちは日ごろ、そうなったら救われると思ってます。ワニくんも、何とか足が小さくならないかなあーって、洗濯機で洗ったり、冷蔵庫に入れたり、最後は神頼みです。しかしその後、「あしのおおきさはそのまんま」とあります。先のしんちゃんの「鳴かぬなら、それでもいいよ、ホトトギス」です。実は、そこから見えてくる世界、これが素敵なんですよね。私たちの生活の中にもこの「あしのおおきさはそのまんま」からの頁が有るかどうかです。「南無・思い通り」ということだけで、もし生きるならば「神様、寝ている間に足が小さくなりますように」って、人生はここまでです。私たちがこの絵本で登場するならば、足を小さくしようとする頁までです。せいぜい後の頁があったとしても、その事実が受け止められないから、嘆いたり、あきらめたり、開き直ったり、これも心の持ちようだと思うようにしたり、自分よりもっと足の大きな者を探したり…です。ごめんねの「ご」の字もありません。そんな主人公です。こんな生き方で百万年生きたところで、これ長生きなんでしょうか。今の流行りの宗教は、先に言いましたけど、足を小さくしてあげますよって、こんな売り文句のものばっかりです。この宗教に入信したら、幸せになれますよって。

 こんな言葉があります。

 人間はただ幸福を求めているのではなく その底に真実を求めている

 もしも、あの人もこの人も、「南無・思い通り」だけで生きているのでしたら、どうでしょう、人間なんかただ、煩わしくて、鬱陶しいだけです。でも、みんなその底に真実を求めているということにうなずく時に、初めて、人間を信頼するということがあるのだと思うんです。
 私たちは「南無・思い通り」、これしかないと思い込んでますけど、「あしのおおきさはそのまんま」からの頁に共感するものを持っています。やはり、一番深いところで、この私が思ってもいないような、もっと違う確かな生き方を探しているのではないでしょうか。人間を、そして自分を、決して軽んじてはいけないと思います…。

 一番深いところで、については、四席目、五席目で展開できたらと思います。
 次の一席、三席目は、今の時代私たちが共通して願っていること、頼りにしていること、そういうことを考えさせていただけたらと思ってます。
 今席はここで終わらせていただきます、ようこそお参りくださいました。

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