皆さまこんにちは。ようこそお参りくださいました。どうか楽な姿勢で、よろしくお願いします。
今回、お待ち受け法要・大会という、身に余るようなご縁を賜りまして、私が色んな人たちから教えていただいたことをお伝えできればと思います。
テーマは「宗祖親鸞聖人に遇うということ」です。
宗祖親鸞聖人に遇うということは、どういうことなのかという大切なテーマをいただきました。限られた時間ですけど、そのことを皆さまとご一緒に考えていきたいと思います。
今日は皆さまにレジュメを配らせていただきました。お手元に届いているでしょうか。一応、私なりに、こういうことをお伝えしようと思って用意してまいりました。1番から13番までです。このレジュメにそってお話いたします。
今年、各組(そ)においてお待ち受け大会、あるいはお待ち受け法要が勤(つと)まっております。私は第十六組に所属していますが、昨日、第十六組のお待ち受け法要が勤まりました。また、長浜教区のお待ち受け大会が五月に、お待ち受け法要が十月に勤まります。ですから、十六組でも、こちら二十組でも、あるいは長浜教区においても色んな所で来年の親鸞聖人の七百五十回御遠忌に向けてですね、今年はお待ち受けの年なのですね。
そこでまず、最初に確かめておきたいと思うのですけども、1番を見てください。一九九八(平成十)年、蓮如(れんにょ)上人五百回御遠忌が勤まりましたですね。次の文章は、その前の年、お待ち受けの年に書かれていたものです。
「お待ち受けするのか」
実はそうではない。ずっとお待ちいただき続けているんだということを感じています。
「朋(とも)よ」と呼ぶ声をじっと耳をすませて聞き止めることをしたいと思います。
『同朋(どうぼう)の声』第十二号 東本願寺同朋会館発行
このように書いてあります。普通は、私たちが親鸞聖人をお待ち受けする、こう考えますよね。でも本当にそうなのかと、実はそうではなく、この私がずっと待たれているのではないのか、こういうことを既(すで)に蓮如上人五百回御遠忌の時に教えてくださっているのです。あらためて今年、こういうことを一人ひとりがまず心に刻むべきではないかと思うのです。実は、この私が親鸞聖人からずっと待たれているのです。
次、2番を見てください。『末燈鈔』の親鸞聖人の言葉です。
浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし
『末燈鈔』親鸞聖人(真宗聖典六〇七頁)
こういう言葉があるのですね。親鸞聖人が「かならずかならず」と二回も言われるのです。「まちまいらせ」というのは謙譲語です、必ず待っておりますということです。やはり、私たちが親鸞聖人を待つのではなく、親鸞聖人の方が「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」と呼びかけておられるのです。待っていてくださるのです。
待っていてくださるということですが、今日もこちらへ来ましたら、総代さんですか、ご門徒さんが待っていてくださいました。
「一時二十分ごろと聞いていたから、もう来ると思っていました」
と笑いながら待っていてくださいました。そしてまた、こちらの坊守(ぼうもり)さんが
「お待ちしておりました」
とご挨拶し、待っていてくださいました。
この待っていてくださるということですが、一つ聞いていただきたいお話があります。それは、以前、私はこんな経験をしたことがあるのです。
ある日、ご門徒さんの家にお参りに寄せてもらったのですが、あいにく留守でした。でも、そこのご主人から、気楽に、
「ご院(えん)さん、うちはなあ、ちょっと用事で近所に行ったり来たりして、少しの時間、家を空(あ)けることもあるんで、悪いけど、その時は先にお勤め始めてな」
とこんなふうに聞いていましたので、家に上がらせてもらい、お勤めを始めました。すると、お勤め中に突然、ストーブが「ピー」「ピー」と鳴り出すのです。それは、三時間延長を知らせる音でした。今のストーブは三時間で切れる装置が付いていますよね。その音なのです。勿論、延長はせず、帰りにストーブの電源自体を切って失礼しました。
話はこれだけなのですが、私はこのお参りの際に終始、感じていたのは、
「残念だなあ、留守なのか」
ということだけなのです。
言うまでもなく、これは、お経の配達を奨励するようなことを言いたいのではありません。このご門徒さんのこと云々ではありません。待っていてくださるという、この一点をお話したいのです。
それはどういうことかと言うと、寒いだろうと、三時間前からストーブを点(つ)けて待っていてくださるのです。それに思い出せば、仏(ふっ)花(か)もきちんと立替(たてかえ)をし、部屋も清掃(せいそう)されてありました。それにお茶菓子も用意してありましたわ…。つまり、そこにその人の姿はなくても心は届いているのです。
ところが、私はまるでカメラのシャッターを押すかのように、「残念だなあ、留守なのか」としか受け取れなかったわけです。きっと、これに限らず、私はいつもその場面、場面だけをとらえて、相手を裁くようなことをいっぱいしているのかもしれません。
今日の法要も、盛大なお勤めでございましたよね。このような正信偈の唱和がずっと伝わってきているのです。皆で声高らかにです。そういう歴史が確かにあるのです。
お宿であるこの明照寺さんに、今日までどれだけの人たちが手を合わせてお参りされてきたことでしょう。この明照寺さんをお建てになり、相続(そうぞく)してこられた人たち…。
ですから、本日、姿は見えなくても、決して「留守」ではないのです。親鸞聖人をはじめ、たくさんの先達がここに集っておられるのでしょう。これはどこのお寺、あるいは、何時の仏縁においても言えることなのです。
実は、そういう人たちが私たちをずっと待っていてくださるのではないでしょうか。
しかし、そういうふうになかなか受け取れないのですよね。それよりもまず、私を置いて、物事考える癖(くせ)が、どうもついているように思います。
これは当然なのかもしれません。私が初めてこの同朋大会にご縁をいただいた時に「満年齢」と「数え年」についてお話させていただきました。今はほとんど「満年齢」です。満年齢というのはオギャーを〇歳として、そこからいのちを見るのです。つまり
「まず私在(あ)りき」
です。
だからそういう文化の中で「まず私在りき」「ここから…」と考えていく癖が染み込んでいるのだと思います。あくまでも「ここから…」であって「ここまで…」ということを感じ取る感覚がすっかり麻痺(まひ)してしまっているのではないでしょうか。だから、待たれているなんてことは、やはり解らないのでしょうね。
考えてみると「人」がこうして生まれてくる背景に、果てしないいのちのつながりがあるわけで、それこそ「三時間」どころではありません。すでにして、お待ち受けされ、「人」は誕生するのです。
実は、今、ここに、様々なものが届けられている…その事実の中にいつも私が在るのです。親鸞聖人をはじめ、あらゆる人たちから待たれているのです。
そもそも、この私一人が待たれていた…。それが親鸞聖人の生涯の姿勢ですよね。3番を見てください。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。
『歎異抄』(真宗聖典六四〇頁)
これは親鸞聖人の言葉ですが、言うまでもなく、決して私だけがえこひいきされているということではありません。仏から背(そむ)き続けている、この私一人が仏からずっと待たれていたということなのです。それこそ五劫の間です。このような和(わ)讃(さん)もありますね。
金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける
『高僧和讃』親鸞聖人(真宗聖典四九六頁)
「さだまるときを」仏から待たれていると親鸞聖人が和讃されています。
繰り返しますが、私たちもまた「さだまるときを」、親鸞聖人をはじめ、あらゆる人たちから待たれているのです。
宗門としても
「宗祖としての親鸞聖人に遇う」
ということを基本理念に掲(かか)げてあることからも、今回、「宗祖親鸞聖人に遇うということ」というテーマをいただいたのですが、考えてみると、
「親鸞聖人に遇う」というテーマでもいいわけです。でもわざわざ「宗祖」が上に付くのですよね。それは、この御遠忌に「宗祖」という、この言葉を課題としていこうとするわけです。
この「宗」というのはですね、大谷大学の国文学の先生から聞かせていただきました。
「むね」は元は大和(やまと)言葉で、昔から一番大事なことを表わしています。「むね」は「宗」以外に、こんな漢字もあります。趣旨の「旨(むね)」です。あるいは人間の体の「胸(むね)」です。また、建物の「棟(むね)」です。ですから「むね」とは中心という意味です。こういうことを「むね」とい字は表しています。
それなら、何を「宗」とされたのか、それは、「真宗」ですから「真(まこと)を宗」とされたのです。
そしてさらに「真宗」の上に「浄土」という言葉が付きます。「浄土真宗」です。
今日のパンフレットに「確認の言葉」が書かれています。これを最後に皆さま朗読(ろうどく)されるのですよね。その三行目にも
「浄土真宗を開顕(ひら)いてくださいました」
とあります。
「浄土真宗」…、
このことはちょうど昨日、第十六組のお待ち受け法要の講師の一楽真先生から
「浄土真宗」とは
「浄土と真宗」
という並列(へいれつ)ではない。
「浄土が真(まこと)の宗(むね)である」
なのです。もっと厳密に言えば
「浄土こそ真の宗である」
と読むのだと聞かせていただきました。
先ほど?番を読ませていただきましたけども、
「浄土にて」
と親鸞聖人はこう仰っているわけです。
主著(しゅちょ)である『教行信証』もその頭は
「顕浄土」
です。
ですので、「宗祖親鸞聖人に遇う」とは「浄土こそ、真の宗である」ということを開顕かれた「祖」として、私たちが親鸞聖人に遇うということだと思います。
ここで一つ確かめておきたいことは、私たちがこの土徳ある湖北の地で、こういう『正信偈』の歴史の中に迎え入れられ、真宗のご縁をいただいているのにもかかわらず、もし、「浄土」を求めることがないのなら、親鸞聖人に出遇うということはありません。「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」なんて言葉を聞くと「ありがたいなあ」「うれしいな」などと感じるのですが、一向(いっこう)に浄土を願うことのない者がどこで親鸞聖人に遇うのでしょうか…。そのことが問われているのです。
いつもの「難しい」と言って耳をふさぐのではなく、共にずっと課題としていきたいことですよね。
さて、ここからはこの浄土ということに焦点を当ててお話させていただきます。
今日の「確認の言葉」ですね、これを読ませていただきまして、背筋が伸びる思いがしました。凄く熱い気持ちが込められているように思います。今回、このようにですね、大変なご縁を迎えるのだという、そういう気持ちが私にも伝わってまいります。
先ほど、触れましたけど、そこに「浄土真宗を開顕いてくださいました」とあります。やはり浄土なのです。
考えてみると、ここ湖北ではこの浄土ということを意識してきたように思います。去年、申し上げましたですよね、ここらの人たちは、人が亡くなられた時に
「参らせてもろた」
と言われます。それは草場の陰へ、冥土へではなく、浄土へです。勿論、それは単に死後の世界ではありません。
何かこういう「参らせてもろた」という言葉になってきた基(もと)に、やはり「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」という、宗祖親鸞聖人の言葉があり、それはただ湖北独特の方言(ほうげん)ではなくて、ここでお念仏に生きてこられて人たちが生み出してきた言葉なのだと思うのです。赤ちゃんが生まれたことを
「もらう」
ですしね。浄土からもらうのです。
湖北では日常の生活と浄土が無関係ではなかったように思うのです。
この「親鸞」という名前はですね、皆さん重々ご承知かと思いますけども、七(しち)高僧の第二祖の天親(てんじん)の「親」と、七高僧の第三祖の曇鸞(どんらん)の「鸞」との一文字ずつをとっているのです。
親鸞聖人がこの二人を特に尊ばれたという理由なのですが、それに加えて、天親といえば『浄土論』を説かれた人です。そして曇鸞は『浄土論註』を書かれた人です。ですので、「親鸞」とは浄土を明かにしてくださる名前なのです。「親鸞」という名告(なの)りは、浄土を意識し、課題として生きるという表明なのです。
では、私たちは浄土をどのようにイメージしているでしょうか。二つ飛びますが先に6番を見てください。皆さまよくご存知の小説家、菊池寛(きくちかん)氏の文章です。この方が『極楽』という題で小説を書いておられます。宗兵衛とおかんという名前の夫婦が主人公で、極楽をイメージした小説なのです。私たちも浄土に対して、何かこういう世界をイメージしているのではないかな…と的確に教えてくださいます。先に宗兵衛という旦那さんが亡くなっていて、何年か経ちそれから信心深いおかんという奥さんが亡くなっていかれ、そして極楽で再会するという、こんな話です。その一部分ですが読みますね。
「お前も来たのか」と云うような表情をしながら座を滑べっておかんの為に半座を分けてくれただけである。それでも、おかんは落着くと、夫と死に別れてから後の一部始終を話した。当代の宗兵衛が、家業に精を出す事やら嫁のお文(ふみ)が自分に親切にしてくれたことやら、孫娘のお俊(しゅん)が可愛くて可愛くて堪(たま)らなかったことなどを、クドクド話し続けた。そうして娑婆の話が何日となく続いた。一家の中の話は、幾度も繰り返し話した。知人や親類の事も幾度も話した。祇園や京極の変遷(へんせん)なども話した。迦陵頻迦(かりょうびんが)が微妙音(みようおん)に歌っている空の下で、おかんは積もる話を、心のままにした。宗兵衛も面白そうに聞いていた。が、幾日々々も話している中(うち)には、大抵の話は尽きてしもうた。おかんは、話が絶えてしまうと初て落着いて、極楽の風物を心から楽しもうとした。何処を見ても燦然(さんぜん)たる光明が満ち満ちている。空からは綴紐(ひょうびょう)たる天楽(てんらく)が、不断に聞えて来る。おかんは、恍然(こうぜん)としてそうした風物の中に、浸りきっていた。楽しい日が続いた。暑さも寒さも感じなかった。色食(しきよく)の欲もなかった。百八の煩悩は、夢のように、心の中から消えていた。極楽の空がほがらかに澄んでいるように、心の中も朗らかに澄んでいた。「ほんとうに極楽じゃ。針で突いたほどの苦しみもない」と、おかんは宗兵衛の方を顧(かえり)みて云った。が、宗兵衛は不思議に、何とも答えなかった。同じような日が毎日々々続いた。毎日々々春のような光が、空に溢れている。澄み渡った空を孔雀や舎利が、美しい翼を拡げて舞い遊んでいる。娑婆のように悲しみも苦しみも起らなかった。風も吹かなかった。雨も降らなかった。蓮華の一片(ひとひら)が、散るほどの変化も起らなかった。おかんの心の中の目算(もくさん)では、五年ばかりも蓮の台に坐っていただろう。「何時まで坐るんじゃろ。何時まで坐っとるんじゃろ」と、おかんは或日ふと宗兵衛に訊いてみた。それを聴くと宗兵衛は一寸(ちょっと)苦(にが)い顔をした。「何時までも、何時までも、何時までもじゃ」と、宗兵衛は吐き出すように云った。「そんな事はないじゃろう。十年なり二十年なり坐っていると、又別な世界へ行けるのじゃろう」と、おかんは、鮒(ふ)に落ちないように訊き返した。宗兵衛は苦笑した。「極楽より外(ほか)に行くところがあるかい」と、云ったまま黙ってしまった。
『極楽』菊池寛著
この話の結論は退屈で退屈で仕方ない二人であったということになるのですが、これは大事なことを言い当てていると思います。
私たちは、浄土真宗の教えをいただいているのですけど、浄土が一番解らないのかもしれません。死後の世界と思っていないでしょうか。この話のような春のような光明に満ち溢(あふ)れた世界。針で突いたほどの苦しみも感じない世界。そんなイメージですよね。このことから教えられることは、私たちが考えてしまう浄土とは
「ゴールインの世界」
ということです。ここでの極楽、これはまさしくゴールインの世界です。
そして、そこにいるのは宗兵衛とおかんだけです。そのことからもう一つ教えられることは、私たちが考えてしまう浄土とは
「私(たち)だけの世界」
ということです。
そして、宗兵衛とおかんの如く、これほど退屈な世界はないのですよね。
ですから、逆に、次の二つのことを押さえたいと思います。
「浄土とはゴールインの世界ではない」
「浄土とは私(たち)だけの世界ではない」
ということです。
一一八一(養和元)年、親鸞聖人は得度されます。それは道を求めるという出発点です。九歳の春のころです。鴨長明氏により、その頃のことが書かれた『方丈記』という書物があります。鴨長明氏もこの時代の無常なる世の中を見て得度されているのです。この人も道を求められた人なのですね。4番見てください、『方丈記』の中にある文章です。
親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。又母の命つきたるを不知(しらず)して、いとけなき子の、なほ乳をすひつゝ臥せるなどもありけり。(中略)すべて四万二千三百余りなんありける。
『方丈記』鴨長明著
これは一一八一年、親鸞聖人が九歳、得度された頃にですね、大変な飢饉が起こったのです。飢饉、日照り、疫病です。それで加茂川が死体で一杯で溢(あふ)れたそうです。
この「親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。」というのは、普通、食べ物が無い時でしたら、子どもが先に死ぬのかなと思いますが、「親ぞ先立ちける」と書いてあるのは、親は子どもを何とか生かすために、子どもに食べさせるのですね。そして自分は飢え死にする。子どもに何とか生き伸びてほしいから、自分は食べずに子どもに全部与える。だから親が先に死ぬのだそうです。そして、幼児が死んでしまったお母さんの乳を吸っているという「又母の命つきたるを不知(しらず)して、いとけなき子の、なほ乳をすひつゝ臥せるなどもありけり。」です。その数、「四万二千三百余り」です。これは一ケ月間のことだとあります。四万二千三百人余りが亡くなっているのです。
実は、親鸞聖人が得度した頃は、こういう世の中だったんですね。まさに地獄そのものです。
ですから、親鸞聖人の幼い眼(まなこ)に、道を求めるという出発点に、こういう人たちがしっかりと焼き付けられていたのだと思います。
ところが、比叡山に上ってみれば、貴族中心の、財力や地位のあるそういう人たちだけが供養、加持祈祷を求めることができ、一般庶民にはまったく無関係な場になっていたのです。そこで親鸞聖人は悶々(もんもん)とされるわけです。だから5番を見てください。このようにあります。
この世の本寺本山のいみじき僧ともうすも法師ともうすも うきことなり。
親鸞聖人(真宗聖典五一〇頁)
「この世の本寺本山」とは今の東本願寺ではなく、比叡山のことです。「いみじき」というのは素晴らしいという意味です。「うきこと」は憂きことです。比叡山の素晴らしい僧侶や法師と申す人も、憂きことと仰っているのです。まさに皮肉なのですね。ここに仏道は無いとはっきり言われているのです。
また、親鸞聖人は、
明日(あす)ありと 思う心のあだ桜 夜半(よは)に嵐の 吹かぬものかは
と詠(よ)まれました。得度をお願いしたところ青蓮院の慈鎮和尚(かしょう)の
「今日はもう遅いから、明日にしたらどうか」
という言葉を遮(さえぎ)って、
「明日の日は来るかわからない。今日、お願いします」
と言われたのです。
九歳の子が本当にそんなことを言ったのだろうかという疑問をよく聞きますが、うそか本当か、言うか言わないかという話よりも、親鸞聖人にそんなふうに言わしめる人々の現実があったのだと思います。『方丈記』の中の、世の地獄を目(ま)の当たりにしている、そう言う人たちが背中にあった親鸞聖人にとって「明日」はなかったのでしょう。
そんな親鸞聖人にとっては、地位や財力のある限られた人だけではなく、いやむしろ『方丈記』の中の、あのような為す術(すべ)もない一般庶民がいかにして救われるのかということが何よりも課題であったと思います。だからこそ浄土なのです。私(たち)だけの世界ではなく、すべての人が救われていく世界、そういうことを生涯求めていかれた人なのです。
どうでしょう、この土徳ある湖北にご縁をいただきながら、そういう人を宗祖としながら、私たちはどうも、私(たち)だけの狭い浄土をイメージしているのです。繰り返しますけど、その限りにおいて親鸞聖人には、絶対にお遇いすることは無いのですね。
そして、親鸞聖人がもう一つ大事なこと教えてくださっています。浄土に生まれることを
「往相回向(おうそうえこう)」
と言われますね。実は、これだけでしたら先ほどのゴールインです。ところが親鸞聖人は、さらに、
「還相(げんそう)回向」
ということを説かれるのです。『教行信証 教巻』にある
謹(つつし)んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。」
(真宗聖典一五二頁)
また、『正信偈』の中の
往還(おうげん)回向由他力
(真宗聖典二〇六頁)
です。
「往相回向」だけではなく、「還相回向」という浄土から還るということがあるのです。ただ、浄土という、どっかにある世界に行ったり還ったりということではないのですけど、やはりゴールインという一方通行の話ではないのです。
そのことが、誰よりも親鸞聖人にとって、大事な課題であったのだと思います。
『唯信鈔文意』の
いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり
(真宗聖典五五三頁)
という親鸞聖人の言葉があるように、親鸞聖人が生きられたのはそういう人たちと共になんですね。善根を積むどころか、生きるためには、悪事さえもあえてしなくてはならない一般民衆の人たちを「われら」として生きられたのです。
もし、親鸞聖人がただ優秀でエリート街道(かいどう)まっしぐらで、比叡山のトップの僧侶(そうりょ)で終わっていたら、今日のお待ち受け大会のご縁もやっぱり無かったわけですね。
考えてみると、親鸞聖人が自分一人の努力で親鸞聖人になられたのではなく、『方丈記』の中の人たちをはじめ、「いし・かわら・つぶてのごとくなる」人たち、そのような親鸞聖人をとりまく無数の人たちが浄土を課題とする親鸞聖人という人を生んでくださったのだと思います。