▼4月10日(水)大谷会館講堂に於いて開催された部落差別問題に学ぶ研修会に出席しました。(※上画像)
▼講師の谷元昭信(元部落解放同盟中央執行書記次長)さんからは19頁にものぼるレジメから、実に丁寧な問題提起を頂きました。その中で今回のテーマである「部落差別はなぜ今も残り続けるのか、差別問題克服への展望」について次のように語られました。
差別が存在することで物質的・精神的「利益」を得る人たちがいて、その人たちの差別行動が罷り通る社会構造があるから部落差別は今も残り続けるのです。そしてこの社会構造を容認してきたのはほかでもない多くの「普通の人びと」なのです。
▼またこのことから、重ねて思い起こされる次の文章を紹介させて頂きます。
第二次大戦後になってナチスの強制収容所や絶滅キャンプの実態が詳細に報道されるにつれ、いったいこういうことがやれるのはどんな怪物だろうかという問いがのべつに発しられた。しかし、その問いにたいしてはすぐさま、いや、怪物でも何でもない、そこらの町角でニコニコしてタバコや切手を売ってくれるオジサンたちだったという返答がもどされた。(中略)これだけの大事業をシステムのそれぞれの位置にあって毎日、毎週、毎月、平々淡々と遂行していった人たち(中略)どこからどこまでも、うんざりするほど正常で平凡な、ただの人であった。
『最後の晩餐』開高健著
▼「どこからどこまでも、うんざりするほど正常で平凡な、ただの人」と同じく今回谷元昭信さんが表現される「普通の人びと」が社会全体を容認し「どんな怪物だろうか」と思われるような非道で残虐な行為を「平々淡々と」してしまうのです。
▼自身の無自覚なままいのちまでも奪う不当な差別もまた同じです。私たちは、今一度、自問すべきではないでしょうか。「普通の人びと」とは一体誰のことなのかと。そのことを外して谷元昭信さんが言われる「差別問題克服への展望」は決してはありません。
▼また、レジメの中の「部落差別克服への今日的展望と当面する課題」の章にある次の文を読み上げられました。
「差別」は、差別される人の「人間の尊厳」を損なうが、差別する人の「人間性」も喪失させるという「双方の悲劇」を生み出すものであることを深く胸に刻むこと。
▼だからこそ谷元昭信さんは、「当事者」と「非当事者」とを分けるのではなく、すべての人が差別に当たる「当事者」であり、さらには課題を共にする「共事者」なのですと提起されました。