テーマ 母音(72座)  

2006(平成18)年8月1日


 

表紙

ああ(噫)、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや(哉)、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな(哉)、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。

『顕浄土真実教行証文類』親鸞聖人
真宗聖典 一四九〜一五〇頁 真宗大谷派 勤行集(赤本)八三頁


悲しきかな(哉)、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。

『顕浄土真実教行証文類』親鸞聖人
真宗聖典 二五一頁

 

住職記

▼私たちは毎日たくさんの言葉を使って、自分の気持ちを表現しています。その中で、よろこびにつけ、かなしみにつけ、また、感動した時にもまた、思わず口に出る「ああ」という母音の音があり、それは真実なるものに出遇った時の人間共通の声であると思います。
▼親鸞聖人も著作である『教行信証』の中で、親鸞の三哉(さんさい)といわれる、真実なるものに出遇った感動を「誠なる哉」「慶ばしい哉」「悲しき哉」と、…だなあという詠嘆の意で、また「ああ、弘誓の強縁…」と、このように表現されています。(表紙参照)まさに親鸞聖人からの母音がそこにあります。
▼人間として、ただ一度の人生を大切に生きるということは、この母音の発するような真実なるものとの出遇いを持つことに尽きると思うのですが、今日、私の中から社会全体にいたるまで、どれだけ、この母音が聞こえているでしょうか。
▼考えてみると、能率、効率を最優先とする現代の文化の価値観において、一番無駄なのは、他でもない、この母音です。そんなことを口にするより、早く結論を出せと、忙しい私たちは、どこで人生を大切に生きているといえるでしょうか。
▼今、限りなく母音を失った者に対して、牛のようにと、覚醒を促すこんな詩があります。やはり「ああ」という声で結ばれています。           

『忘れていた 忘れていた』
         東井義雄

忘れていた 忘れていた
一生けんめい
生きてはきた
忙しい 忙しいと 
生きてはきた
しかし 牛のように
よろこびの日も 
かなしみの日も
大いなるものの
誓いを信じ
願いをかみしめ
ひと足 ひと足
ひと事 ひと事
ひと時 ひと時を
踏みしめ 踏みしめ
大切に生きさせて
いただくのでなかったら
どんなに
忙しく生きても
せっかく頂いた 
ただ一度の人生を
むなしく
過ごしてしまうことに
なるのだということを
忘れていた

ああ 牛如来のご説法

 

編集後記

▼長浜教区内の数ある研修会の中の「部落問題研修会」の座談会に、強く感じることがあります。それは、そこに居るのは、せいぜい、言わざるに徹する者か、話をそらす者か、結論を急ぐ者か、解説する者か、まとめる者かの面々であって、その話の中に、少しも母音が聞こえてはきません。私たちは、痛み、悲しむ心を失ったということではないでしょうか…。

▼演劇の世界でも、歌の世界でも、やはり、母音を一番大切にしているそうです。そういえば、法事の際に勤める「本日 ここに 釋○○の○忌にあたり…」という『表白』の中で「ああ、如来の本願には多生にも遇い難く」の母音の所を大切にせよと教えられたことを思い出します。

 


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