テーマ 長浜園児殺害事件に思う(70座)

2006(平成18)年4月1日


 

住職記

▼二月十七日、地元、相撲町で、まことに痛ましい園児殺害事件が起こりました。このような形で、幼いいのちが奪われることは、決して許されることではありません。ただ、今、私たち一人ひとりがなすべきことは、この事件の背景に何があったのかということを真剣に考えることだと思います。
▼加害者の鄭永善容疑者が中国籍ということから、ある新聞記者がこのような内容のことを書いていました。

 私たち日本人にはわからないようだが、日本という国は、島国根性というか、同化圧力的な、違いを認めない日本人独特の考え方、そのような「枠」が蔓延している。

▼今回の事件も、グループ登園をはじめ、どうしてもなじめない「枠」の中で、鄭永善容疑者はかなり精神的に不安定であったといわれています。
▼以前、私が高校生の時、左足を怪我し、松葉杖を突いて登校している期間がありました。その間、つくづく、都会というのは(当時、大阪でしたので)若くて、元気で、健康な者は「枠」の中ですが、ひとたび、そうでなくなると途端に、お前の居場所は無いといわんばかりに、「枠」から排除されるという、実に冷たい世界なんだと感じました。
▼「枠」の中を善とし、「枠」の外を悪とする、これほど、弱者にとって、生きづらいことはありません。しかし、こんな強者中心の温もりのない冷たい社会を作っているのは、他でもない、その「枠」に何とか入ろうと頑張る私たち一人ひとりであります。そんな私たちのことを「多数」と、そんな社会を「暴力の時代」と踏まえた上で、語りかけてくる、このような言葉があります。

 わたしたちはいつの間にか、多数を正義としてひとりを見失ってしまいました。
 真宗人に問われているのは、同時代に生きている「ひとりのこころの苦悩」に、わがこととして応えるのかという問いかけなのです。
 この時代を暴力の時代と感じるのなら、暴力に苦悩するひとりの人に身を添わせてその声を聞かなければなりません。 
 苦悩するひとりの人のこころに身を添わせ、その苦悩を聞く者であることが生きるということです。
 あなたが身を添わせる人の苦悩は、あなた自身の苦悩と重なり、生きることは、共なる苦悩を生きることとなります。
                               『悲しみに身を添わせて』祖父江文宏著

▼真宗の教えに生きようとする真宗人として、親鸞聖人の言葉に帰り続けたいと願うばかりです。
 
 さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
                                         『歎異抄』親鸞聖人

▼これは、私もまた、もしかしたら、縁しだいで何をするかわかりません…、とそんな個人的な、これから先、どこか外からやって来るような業縁ということだけではなく、すでにして、このような事件が生まれてくるような時代的な業縁、社会的な業縁、民族的な業縁を実は私が作り、支えているひとりであるということも教えているのではないでしょうか。
▼今回の事件が起こってくるような暴力の時代である今日ほど、多数を正義とする論理で、様々な『枠』を生産し続ける者が厳しく問われている時はないと思います。

 

編集追記

▼祖父江文宏さんが「真宗人として」と表現されていますように、昔、親鸞聖人の教えに生きておられた先祖方は、世間から、門徒もの知らず(真宗門徒もの忌み知らず)と呼ばれていました。それは、世間で当たり前とする「枠」を常に、親鸞聖人の教えに問い直す眼を持っておられたということです。どうでしょう、その眼に、私たちの生き方はどのように映っているのでしょうか。
▼世間では、今回の事件に対して、「どんな重い処罰を受けても、亡くなられた人の尊い生命は決して戻っては来ない。ましてや、親御さんの悲しみが癒えるものでもない」「鄭容疑者は死刑に処せられるべきである」等の声が飛び交っています。私の心の中にも同感の声がやはり、あります…。しかし、たとえ、憎き相手を復讐し、殺しても、決してそれでは救われないのが人間なのですよね。それどころか、心の内奥から、たえず何かうずいてくるのが人間です。誰の中にもある人間としてのうずきを基に、丁寧に考え、話し合うことから始めていきたいと思っています。失われた二人の尊いいのちを決して無駄にしないために。合掌

 


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