テーマ 満年齢と数え年(67座)

2005(平成17)年10月1日


 

表紙

A song is born 浜崎あゆみ

はるかはるか数億年もの
遠い昔この地球は生まれた

くり返される歴史のなかで
僕らは命受け継いだんだ

私にはこんな場所から
この歌を歌う事でしか
伝えられないけど

もう一度だけ思い出して
僕らの地球のあるべき姿
そしてどうか忘れないで
どうかどうか忘れないで





私のいのちは決しておぎゃと生まれたところから始まったわけじゃないんです。その意味では、昔は私たちの子ども時分は全部数え年でした。あれは非常にいいですね。今は満年齢というのは非常に合理的なようですが、それはおなかの中の十ヶ月っていうものはいのちとして数えてないわけです。すでにおなかの中から私の人生は始まっているわけです。そしてさらに、おなかの中に芽生えるまでの歴史を考えれば、私がこの私として生まれてくる縁というものは実に限りない歴史をもっているのです。

『人と生まれて』宮城 豈頁(みやぎしずか)著より 

 

住職記

▼満年齢の数え方が主流である世代に育った私は、この湖北に来た当初、村のお年寄りが自分の歳を数え年で言われるのをとても新鮮な思いで聞いていました。
▼そもそも、今の満年齢は、一九四五年、終戦の年、アメリカから入ってきた数え方であり、それまでは、行年、享年が数え年であるように、日本では、特に仏教においては、人の歳は数え年であったようです。
▼数え年とは、生まれた年を一歳として、あと新年のたびに一歳を加えて数える年齢(岩波・国語辞典)とあります。
▼「新年のたびに」の如く、お正月の浄願寺での修正会(総勤行)の時に「また一つ年をもろた」と口々に言われるお年寄りのその声に、個々別々のハッピー・バースディ・トゥー・ユーの満年齢より、同じ時、同じ場所でお互いに年を一つ重ねる数え年の方が段々と素敵に思えてきました。
▼また「生まれた年を一歳として」とありますが、満年齢ならば、言うまでもなく、生まれた年は〇歳です。表紙の言葉からも教えられるように、「〇」というのは、生まれる前のお母さんのお腹の中、さらには、そこまでにつながるいのちをまったく見ない在り方なのですよね。
▼生まれた年を「一」と見るのか、生まれた年を「〇」と見るか、その差は一年の違いという次元の話ではなく、それは、私にまでつながるいのちを見ない「〇=ない」の眼で数えるのか、私にまでつながるいのちを見る「一=ある」の眼で数えるのかという決定的な違いであり、「〇」から数える限り、いのちの私有化、自己中心的な生き方が、誕生とともに、もうすでに始まっているのかもしれません。
▼満年齢の数え方が主流である世代、この日本で、特に仏教に生きた人たちの、数え年という、生まれる前を見ようとする眼と、いっしょに年をもらうという感覚で自分の人生を重ねていく生き方に、私もまた、学び直したいと思うばかりです。

 

編集後記

▼出来ちゃった結婚なんて言葉があるように、子どもは作るという意識が強い今日、湖北では、子どもの誕生を「もらう」といいます。「このたび、おかげさまで、赤ちゃんもらいました」とこんなふうにです。
▼どうでしょうか、この表現も満年齢と数え年という事と無関係ではないように思います。
▼作るというのは、ここからのいのちしか見えていない「〇=ない」満年齢の感覚です。
▼もらうというのは、ここまでのいのちを見ようとする「一=ある」数え年の感覚です。
▼やっぱり、こんな言葉って、ずっと大事にしたいものです…ね。

 


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