テーマ 教えを捨てて人間を取る(55座)

2003(平成15)年10月1日


 

表紙

ぼくが ここに   まどみちお     

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに 
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として

 

住職記

         1、教えを捨てて人間を取る

●『教えを捨てて人間を取る』この言葉に出会ったのは、次の文章の中でです。

仏教というのは、どこまでも人間の事実から出発する。とくに親鸞という方は、何よりも人間の悩みとか弱さとか一人ひとりの人間の事実というものを、本当に深く見つめられた人でございます。どんなに立派な教えであっても、現実に迷ったり、落ち込んだり、悩んだりしている人間がはじき出されるような教えなら、そういう教えを捨てて人間を取る。そういう態度で歩み続けられたのが親鸞でこざいます。
『他人さえもいとおしく』宮城 豈頁(みやぎしずか)著

         2、民衆と生きる

●確かに、親鸞聖人は当時の仏教界の教えの中心であった比叡山を捨てて、民衆と生きるほうを取られた人です。

         3、私たちはどうか

●そのような、親鸞聖人を『宗祖』としている私たちはどうでしょうか…。

         4、人間を捨てて教えを取る

●私の場合、皮肉なことに教えを聞く程、反対になってきています。つまり、教えというものの枠に、相手を、こうあってほしい…、こうあるべきだ…、こうでなければいけない…とはめようとし、遂には、こうでないお前のことはもう知らん…という形ではじき出していく。最後、教えというものが、ぽつんと私の中に残るだけです。それは、人間を捨てて教えを取る…です。

         5、教えを捨ててとは

●実は、親鸞聖人が捨てられた教えとは、今の私のような人を裁いていくような、また、ぽつんとそれだけが残るようなものであったと思います。最初の宮城先生の文章によると、これは「仏教」ではないようです。なぜなら、決して人間の事実から出発していないからです。

         6、人間を取るとは

●親鸞聖人は、一人ひとりを『御同朋』『御同行』とお呼びになりました。それは、ただ横に手をつないで『御同朋』『御同行』になっていくことではなくて、仏説無量寿経の中に『無有代者』とあるように、誰もが代わることの出来ない苦悩や悲しみを背負った、深く重い人生を生きておられるという眼で、一人ひとりを見つめていかれたからだと思います。表紙の詩もまた、そんなふうに人間を見る眼を、私に教えてくれているようです。こういう感覚が人間を取るということなのですよね。

         7、受け止めたい言葉

●人間を捨てて教えを取る…気がつけば、いつも、そんなふうになっている私の事実を照らし出すのが、本当の教えというものなのでしょうね。今、私がしっかりと受け止めていたい言葉を、同じ本の中で、宮城先生はこう言われています。

どうか、みなさん。一人の人間の重さを知る心をもって、いろんな人に出会っていただきたい。

 

編集後記

人は誰とも代わることの出来ない人生を生きている…ということは、その人だけにしか絶対にわからないという事実があるわけですよね。
そのことに頭が下がる時に初めて、その人の言葉が本当に聞こえてくるように思います…。

 


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