テーマ 念じる仏の声を聞く(53座)

2003(平成15)年6月1日


 

表紙

■私自身と私の根性とは全然違います。私の根性というのは、何度も言いますように、損が嫌いで得が好きで、苦労がいやで楽がほしいという心です。これはもう正直な私の根性です。しかし私自身は違う。私自身は、よくよく考えてみたら、意味のあることなら、やりがいのあることなら損してもいいというものがあるはずです。どうですみなさん方、もう絶対に損は嫌いですか。(中略)やりがいのあることなら苦労してもいい、それが本当のあなたじゃないですか。それが私自身です。根性と私自身とをすり違えているから、事がこんがらがっているわけです。つまり自分を見失って生きているのです。そうでしょう。他人のことは知りません。あなた方、自分自身の胸に手をおいて考えてもらえばいい。
■我々は、どうかすると根性と私自身とを取り違えているのではないですか。そうすると、根性だけが私だと思っていますから、最期まで私自身にお目にかからずに死んでしまう。とんでもないことだと思います。お念仏の道というものは私が私に遇う道だと思います。お念仏がないと、根性にまぎれて、ついに本当の自分というものを見失って生きていく。

『仲野良俊著作集』より

 

住職記

▼『ああなれば…』『こうなれば…』と、そんな「条件』ばかりがいつも、私の心の中の大部分を占めている。物事に対して、相手に対して、注文や要求がなんと多いことか。こんな私が日々、孤独感を味わうのは当然のことであり、私を苦しめているのは他でもない、この『条件』に原因があるように思う。
▼約一年前、長浜別院のしんらん講座で、新田修已先生が次のようなある禅宗の老僧の言葉を紹介された。

『若い頃、修行に出るため郷里の停車場に立った時、母親が見送りに来てくれた。いよいよ汽車が動き始めようとした時、立派なお坊さんになって帰ってきますから、お母さんも身体に気をつけて元気で待っていて下さいと言った。立派なお坊さんになった時には、私のところに帰ってこなくてもよろしい。それよりも修行が出来なくなった時や病気でにっちもさっちもいかなくなった時にはいつでも帰っておいで…と言ってくれた。この母親の一言がどんなに辛いことに直面した時でも、どんなに悲しいことがあった時でも、いつも私を支え続けてくれた。」

▼不思議なことに『条件』ばかりを主張する私であるのに、なぜかこのような『無条件』の話に出遇うと感動する私がいる。私の心の中の大部分は『条件』が支配しているようだが、実はその底に『無条件』に共鳴するものが確かにあるようだ。
▼仲野良俊先生はそのことを『私の根性』と『私自身』と区別され、さらに「念仏によってはじめて、私自身に出遇うことが出来る」と述べられている。(表紙参照)
▼以前、

念仏とは、私を念じる仏の声を聞くことである

と教えられたことがある。今、その声をこんなふうに聞き取りたいと思っている。

条件を満たした者だけを受け入れようとするのは     
あなたの根性であって
あなた自身か真に求めているのは
どんな者とも無条件に出遇うことの出来る
そんな世界ではないのか…。

 

編集後記

▼「念仏はお願いごとをするのではない」と子どもの頃から、私もよく聞かされました。これは、念仏は決して私の条件を満たすための手段ではないことを教えている言葉だと思います。考えてみると、今日「あなたの条件を満たしてあげますよ…」と、誘う宗教がいかに多いことか。そんな宗教と親鸞聖人の念仏の教えとは全く違うということをはっきりと見極めたいものです。

▼仲野良俊先生の「私の根性」と「私自身」の区別、このことを北村金次郎さんもまた、「自我」と「自己」という表現で、次のように語られています。まさしく、北陸という土地で一代、念仏に生きられたおじいさんの力強い言葉です。

安田先生な、こうもおっしゃった。

「人間は二度生まれる」と。「最初は父母から生まれて迷うとる。もうひとつ、法から生まれる世界がある。それがほんとの自分です」

と。われわりゃ、子どものときゃ、ほんとの自己自身やったんやけど、三歳ぐらいから、自我が王さまになってしもうたがや。自我が自己に蓋しとる。自我の下に自己がいつもおる。おるけど顔だせんのやね。鉄板みたいもんやもん。自我を破ってくれるもんな、如来の智慧にあうしかない。その、ほんとの自分に遇えんさけ苦しいがやね。自我を自分やと思うとる。

『生命の大地に根を下ろし〜親鸞の声を聞いた人たち〜』松本梶丸著より

 


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