テーマ 汝の、せずにはおれないことをなせ(49座)

2002(平成14)年10月1日


 

表紙

●バスチアンはライオンに宝のメダルの裏に記された文字を見せてたずねた。

「これは、どういう意味だろう?『汝の 欲する ことを なせ』というのは、ぼくがしたいことは なんでもしていいっていうことなんだろう、ね?」

●グラオーグラマーンの顔が急に、はっとするほど真剣になり、目がらんらんと燃えはじめた。

「ちがいます。」

あの、深い、遠雷のような声がいった。

「それは、あなたさまが真に欲することをなすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。」


                                     『はてしない物語』M・エンデより

 

住職記

▼うれしそうにお月さんを指さす一才の娘と朝起きたと思えばもう、ウルトラマンに成り切っている三才の息子。そんな子どもの姿を見ていると

「どうして、そんなに楽しいのか…」
「どうして、そんなに元気なのか…」

と聞きたくなる。でも、それは逆に

「どうして、そんなに楽しくないのか…」
「どうして、そんなに元気がないのか…」

という大人の私への問いかけなのかもしれない。

▼ある時、風呂の中で、頭を洗うのを極端に嫌がる息子を大声で

「嫌なこともせなあかん」

と怒鳴ったことがある。そんな私に、息子が

「なんで、嫌なことせなあかんのん。蓮は(息子の名前)嫌なことはせえへん。やりたいことしか絶対にせえへん…」

と涙ながらに主張してきた。あまりの激しさに絶句した私は、その言葉にとても考えさせられた。

▼そういえば、安田理深先生が大谷大学でよくこんなふうに話しておられたそうだ。

「これから社会に出れば、だんだん忙しくなります。その時に、あれもして、これもして、何もかもしていたら身が持ちません。したらいいなあというようなことは、しない方がよろしい。人がしてはいけないと言っても、自分のこころの底から、これだけはせずにはおれないということだけをしていきなさい。」

▼もちろん、社会を生きていくためには、したいことだけをするというわけにはいかないし、しなければならないこともたくさんある。やはり、大人は「嫌なこともせなあかん」と教えるであろう。しかし、私はそれ以上に考えなければならないことがあったように思う。それは、表紙の文章と合わせるとはっきりしてくる。

▼私は本当のところ何を欲しているのか。せずにはおれないと言えるほどのことを真剣に求めたことがあるのか。そのことがわからないまま死んでもいいのか…ということである。

▼願わくは、一度限りの私の人生が空しく終わらないために、まわりの色々な人たちからの

「それでいいのか」

という声と

「あまり楽しくない」
「あまり元気がない」

という感覚となって、絶えず私の内側からうながしてくる

「汝の、せずにはおれないことをなせ」

というその声を大事にしていきたいと思うばかりである。

 

編集追記

●今の自分の在り方が、楽しくない、元気がないと本当に言い切ることが出来れば、そこに、求めるということが生まれ、必ず道は開かれるのでしょうね。私は適当に楽しい時があり、元気が出たり、全く徹底しません。悩むのも笑うのもいつも中途半端です。だから、何にも壊れないけど、何も始まらないのでしょうか…。あなたはどうですか。

●親鸞聖人は私にまで念仏の教えが届いたことの喜びを正信偈にうたわれ、身に余るほどの恩徳をいただいた感動を

  如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし

と和讃されました。このことから、あらためて思い直すことがあります。

「汝の、せずにはおれないことをなせ」

というのは、ただ自発的に

「これです」

という具合に選ぶ限り、それはどれも違うのかもしれません。限定したその行為をいうのではなく、親鸞聖人のように私まで届き、いただいたものにふれた人だけが、数々の行いひとつひとつを「せずにはおれないこと」として果たしていかれるのだと思います。

「汝の、せずにはおれないことをなせ」

この言葉の中に

「汝は 何をいただいたか」

ということ、さらに、

「汝は、そこに人が見えているか」

という問いかけがあるのだと思います。

 


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