テーマ 共に生きる世界(28座)

1999(平成11)年4月1日


 

表紙

■釈尊がご在世のころです。釈尊の信者であるコーサラ国王のパセーナディが、ある日王妃のマッリカーと城の高楼に登りました。高楼からは領土が一望に見えます。その景色を眺めながらパセーナディは何を思ったのか、妃に、
「妃よ、この広い世の中で、あなた自身よりも大切に愛する人はほかにいるか?」
とたずねます。妃は王の真意をはかりかねましたが、
「はい、私には自分よりも大切に、自分以上に愛する人は他にありません」
とすなおに答えます。そしてマッリカー妃は王に、
「王よ、王はあなたさまご自分以上に大切に、愛するお方が、他にいらっしゃいますか?」
と反問します。王はしばらく考えていましたが、やがて妃と同じく
「自分自身がいちばん大事だし、また自分以上に愛する人もいない」
と、妃に答えます。
■王と妃との答えは一致したので、二人とも満足しました。しかし二人にとって気がかりなことがあるのです。それはいつも承わる釈尊の教えは、
「自分よりも他を愛せ」
ということであると思ったからです。そこで二人はつれだって釈尊のもとを訪ねて、事のてんまつを申上げました。
■釈尊は、王と王妃のいうことを肯われて、
「それでよい。人は誰もが、この世において、自分以上に大切で愛する人を見つけることはできないであろう。そこで心すべきことがある。それはあなた方が、それぞれ自分を最上に愛し、大切と思うように、誰もが自分を、あなた方と同じにこの上なく愛し大事にしていることを知ることだ。だから故なくして他を害してはならぬ道理をよく弁えるがよい」
と。       

(増谷文雄「仏教百話」筑摩書房刊)

 

住職記

■人と人との対立、国と国との戦争を繰り返してきた人類の長い歴史の中で、一人ひとりが願い求めてきたのはやはり「共に生きたい」ということに尽きるのではないでしょうか。しかし、そのことはとても難しいことのようです。平和を願いながら争ってばかりの私たち。一体、どうしてなんでしょうか。

■こんな話を紹介します。これは、北海道の林暁宇先生が若い時に実際に小豆島で体験されたことと聞いています。

その日、海からたくさんのあさりを捕って先生は帰ってきました。早速、バケツに水を入れ、その中にあさりを浸けました。食べるためには、あさりに泥を吐かせなければなりません。先生はしばらく嬉しそうにしゃがみ込んであさりをじっと見つめていました。するとそこに、近所のおじいさんがやって来て、バケツの中を見て言いました。
「これは何をしているのですか」
先生はにっこりとして、
「あさりに泥を吐かせようとしているのですよ」
と答えました。
「…ところでこれはどこの水ですか?」
おじいさんは再び訊ねました。
「どこの水って…、この水道の水ですけれど」
先生が言うと、少し間を置いてからおじいさんは静かに話されました。
「先生、水道の水では絶対にあさりの口は開きません。あさりの□を開くには、あさりの住んでいた海の水でないと決して開くことはないのです」
と。

■この道理が実に、大事なことを教えてくれているように思います。

「水道の水では絶対にあさりの口は開きません」

万事、私は、私の中にある「考え」や「価値観」でまわりの人と関わっています。それを頼りに、まるであさりの□を開こうとするように、相手の心を開こうとしています。それでは決して人と通じ合うことはありません。

私はずっと、私の「考え」や「価値観」という名の「水」で「共に生きたい」とがんばってきただけでした。もしも、相手にそれを強要してーつになろうとするなら、それはただ支配でしかなく、その方向には決して「共に生きる世界」はありません。

「あさりの口を開くには、あさりの住んでいた海の水でないと決して開くことはないのです」

言うまでもなくこれは、どこまでも自分を殺して、相手に合わせることではないと思います。この詩と重ねてみます。

あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生が
かけがえのないように
あなたの知らない人生も
また、かけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を知るということだ(灰谷健次郎)

「あさりの住んでいた海の水」とは、どんな人にも確かに、今日まで生きてきた「歴史」があり「世界」があり「人生」があるということだと思います。表紙の話にも触れ、今、こんなふうに惑じています。

この私の人生が、かけがえのないように、この世の中で、すべての人が、かけがえのない人生を生きています。そして、その一人ひとりの存在を深く知り続けていくということが

「知らない人生を知るということ」であり、そのことが

「人を愛するということ」だと教えられます。

■「共に生きる世界」、それは一人ひとりの人生の重さにうなづくところに、開かれてくる世界のように思います。

 

あとがき

▼三ヵ月の息子は「考え」や「価値観」はまだ出来ていません。そんな息子は、「共に生きる世界」をそのまま生きているように思います。
▼やはり、いつだって、「共に生きる世界」を壊していくのは、私の中の信じて疑わない「考え」や「価値観」という手持ちの「水」のようです。

 


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