テーマ 不真実と共に生きる(25座)

1998(平成10)年10月1日


 

表紙

超世の悲願ききしより
 われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身はかはらねど
 こころは浄土にあそぶなり

『帖外和讃』親鸞聖人  

 

↑『ブッタとシッタカブッタ2』小泉吉宏著より

 

住職記

朝やけ小やけだ 大漁だ
大ばいわしの 大漁だ
はまは祭りの ようだけど
海の中では 何万の
いわしのとむらい するだろう

「大漁」金子みすず

◆この詩、表紙の漫画から教えられます。周りのことを四六時中、見つめることが不可能な私は、万事、私が見た世界しか知りません。にもかかわらずこの世界を絶対だと思い込んでいます。親鸞聖人は、そのことを「有漏の穢身」であると、人間は、常に漏れることが有るのだと和讃されています。

◆「はま」で私たちが見落としている「海の中」では、何万のいわしのとむらいがあります。しかし、私たちが目を向けるのは、そんな「海の中」ではなく、言えば「どうかいわしが一匹でも多く捕れますように」ということではないでしょうか。どうでしょう、私たちの日常、意識にあるのは、日本という名の「はま」の景気のこと。私たちの地域社会という名の「はま」の発展のこと。私の家庭という名の「はま」の無事のこと。最後は私自身という名の「はま」さえよければいいということだと思います。

◆こんな言葉があります。

他者の立場に立って
ものごとを見つめる心に触れる時
人間の原点に
立ち帰らされます。(北別府理絵子)

◆私たちが「はま」だけを立場とし、他者を見失う時、それはもう、人間の原点から最も遠いところに居ると言わねばなりません。今、私たちにとって大切なことは、「大漁」のような、他者の立場に立って、ものごとを見つめる心に触れることだと思います。その時、かろうじて人間の原点に立ち帰らされるのでしょう。

◆願わくば、「有漏の穢身はかはらねど」とあるように、その事実は死ぬまで変わらないということ、「いわし」をはじめ、あらゆる生命を奪い続けながらも、一向に相手の立場に立てないという人間であることの不真実(悲しみ)と共に生きたいと思うばかりです。

 

編集後記

『お蔭様で「はま」は大漁でございます。本当にありがとうございます。そのことに深く感謝いたします。』
と私たちはこれが宗教心だと思い込んでいたのではないでしょうか。私たちがこの姿勢で生きる時には絶対に「海の中」の声は間こえてきません。他者は見えてきません。それは人間の原点を失っているということです。朝に礼拝、夕に惑謝にとどまる私たちの宗教心を今、問い直してみたい。

 


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