テーマ 「みるくうゆ」に思う(18座)

1997(平成9)年7月1日


 

表紙

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり
親鸞聖人(聖典511)

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
親鸞聖人(聖典640)


人々の愚かしさというものは、
あらゆるものについて
答えをもっているということからくるのだと自分は思う。
ミラン・グンデラ


いかに私たちが生きて行く上で、総てのものを決めつけ解ったことにしていて、そのものと真向いにならずに生きておるか。自分の子どもについても、解ったことにしておる。夫婦の間でも、解ったことにしておる。その解ったことにしたときに、一番遠い存在になるんでございます。もう向き合っていないんですから。どうしても解らんということに悲しんでいる人には、なんとか向き合う、少なくともまなざしを向けるということがあるんでしょう。解っておるとしたときに、私たちはもう、まなざしを向けなくなる。それがいかに真実から遠く離れていくか。
『共に生きるということ』宮城 豈頁(みやぎしずか)著より

 

住職記

海をこえて四国は徳島市、ここに本屋と喫茶がひとつになったスペース「みるくうゆ」という名のおもしろい店があります。「みるくうゆ」とは沖縄の言葉で「平和世」という意味だそうです。

ここが共に語り、共に認め合い、そして共に遊ぶ、そんな場所になれば…。
ここでは『…べきである』という話はしないんです。
人を追い込まない。生きづらい人のための場所にしたい…。

この店の河野和代さん、大原米子さんはこんなふうに語っておられます。

この言葉を聞き、感じたことは、そもそも、ずっと昔「みるくうゆ」のように願われ、建立されたのが「寺」であったのではないだろうか。

わが長浜教区では「寺を開く」ということがここ十数年以来、テーマになっています。しかし、よく考えてみれば、こういう課題を掲げなけれぱならないほど、寺が閉ざされ、また「寺は私にとって風景でしかなかった」という言葉の如く、風景でしかなく、本来のいのちを失ったということに他なりません。まったく「みるくうゆ」とは程遠い、異質な場所になっているということです。

今、河野和代さん、大原米子の言葉の「ここ」を「寺」に置き換え、読み直したいと思います。 

寺を共に語り、共に認め合い、そして共に遊ぶ、そんな場所になれば…。
寺では『…べきである』という話はしないんです。
人を追い込まない。生きづらい人のための場所にしたい…。

 

編集後記

河野和代さん、大原米子の言葉の中に

『…べきである』という話はしないんです。

とあります。考えてみると、私は、日に日に『…べきである』が増えていくように思います。
そう、この言葉がどれほど相手を追い込み、さらには自らをも追い込んでいることか…。『…べきである』の数だけ、住みにくい世の中を作り、「平和世」を破壊し続けるわけですよね。

表紙の言葉から教えられます。

善悪(よしあし)の答えによる『…べきである』など、おおそらごとであり、愚かしさというものであり、それがいかに真実から遠く離れていくか。

やはり、この事実に帰る者でありたい…と思います。

 


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