テーマ させてもらう(83座)

2008(平成20)年6月1日


 

表紙

弁当の包みを開いたら
おむすびがでてきた。
手紙がついていた。
それを読んでいると
お母さんの顔が浮かんできた。
するとおむすびだけでなく、
私の着ている服も、
忙しいお母さんが
心をこめてぬってくださった
服であることに気がついた。
飾りについている剌しゅうも、
一針一針お母さんの心が
こもっているのだと思うと私は、
百二十四人の六年生の中で、
私が一番しあわせ者だと
思われてきた。
そして、
私もお母さんになるときには、
お母さんのようなお母さんに
なりたいと思いました。

守本恵
                             

 

住職記

■私たちは、何かをする時によく、

「させてもらう」

という言い方をします。これは、日本人特有の表現であると思います。

■英語などは、能動と受動の

「する」と「される」

がはっきりと分かれてあり、こんな

「させてもらう」

という、されるような、するような不思議な表現はありません。

■私は、青年期の頃、この

「させてもらう」

という言葉に対して、正直、良いイメージは抱いていませんでした。何やら過剰な丁寧語であって、時には耳障りにさえ思っていました。しかし、最近、次の司馬遼太郎さんの文章に出会い、あらためてこの言葉の持つ深い意味を考えさせられました。

近江を語る場合、「近江門徒」という精神的な土壌をはずして論ずることはできない。
門徒寺の数も多く、どの村も、真宗寺院特有の大屋根を聖 堂のようにかこんで、家々の 配置をきめている。この地では、むかしから五十戸ぐらいの門徒でりっぱな寺を維持してきたが、寺の作法と、講でのつきあい、さらには真宗の絶対他力の教義が、近江人のことばづかいや物腰を丁寧にしてきた。日本語には、

させて頂きます、

というふしぎな語法がある。

(中略)

「それでは帰らせて頂きます」。
「あすとりに来させて頂きます」。
「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。
「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」。
この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来=他力によって生かしていただいている。
              
(中略)

この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相 手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗っ たのに、「頂きました」などというのは、他カヘの信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。

『近江散歩、奈良散歩 街道をゆく 24』司馬遼太郎著より

■併せて、このような言葉を紹介します。これはお茶を飲む際に作られた句です。

一椀の吾に捧げる無数の手

英語なら能動と受動の 「飲むのは私」「飲まれるのはお茶」という分け方なのですが、この句を詠まれた方は、数えられないたくさんの手を煩わせて、今、私にお茶が届くという、そこに、これまでの背景を観ておられます。どうでしょうか、この方はきっと、

お茶を飲ませてもらう

と表現されるのではないでしょうか

■さらに

「椀」を「碗」に、「手」を「いのち」

という言葉に置きかえてみると、私が生きているということは、当然食べるわけですから、無数のいのちが私の背景にはあるというこ とが知らされます。

■実は、これらのことから教えられるように、

「させてもらう」

とは、このような、背景という絶対他力の事実にふれた人の言葉であると思います。

■欧米の文化の影響を大きく受け、

まず、私ありき

と生きる私には、

「させてもらう」

という言葉に、違和感しか感じ取れなかったのは、当然のことかもしれません…。

■今、真摯に表紙の文章を頂きたいと思います。これは、修学旅行の思い出を綴った八鹿小学校六年生の守本惠さんの作文です。この人もやっぱり、

おむすびを食べさせてもらう
服を着させてもらう

と表現されると思います。

 

編集後記

▼住職記で、欧米の文化のことを書きましたけれど、言うまでもなく、西洋の文化より、東洋の文化の方が優れているということではありません。当然ですよね。そうではなく、ただアメリカ経由のテレビやマスコミに乗せられ、踊らされ、日本人が大事にしてきたものがどんどん失われていくことには、お互いよくよく考えなければならないと思います。

▼もちろん、英語の中にも素敵な言葉があります。例えば、理解することを

understand

と言います。

under(下に)
stand(立つ)

です。それは、降りていって、下にいる者を理解するという、そんな単純なことではありません。いつも、我こそは…と上に立ち、それを絶対として生きる私たちに対して、そこには決して理解などあり得ないという一点を突いているのではないでしょうか。洋の東西をこえて、人間への厳粛な問いかけの言葉だと思います。

 


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