テーマ 「やり返してはいけない」を考える(96座)

2010(平成22)年8月1日


 

表紙

米田富の怒り 

あなた方の説教は差別助長になるんですよ。
きれいにしなさい
言葉は丁寧にしなさい
家をきれいにしなさい
そうして、
他所の人とはケンカしないようにしなさい
そうなるとね、
どんなことをやられても弱い者はあきらめなければ仕方ないんだと、
こういうようなあきらめを教えることになる。
そういう強いものは、
自分達の今やっている生活がこれで当然のことだという認識を与える。
そうすると差別する者の優越感が守られて、
差別を受ける、弱い立場におる者にますます卑屈感情を教えていくことになるんです。

 

住職記

■次のような釋尊の言葉があります。

実にこの世においては、
怨(うら)みに報いるに
怨みをもってしたならば、
ついに怨みのやむことがない。怨みは捨ててこそやむ。
これは永遠の真理である

■怨みの連鎖を断ち切るために「やり返すことはいけない」と説くわけで、これは確かに永遠の真理であると思います。しかしこのことは、よくよく吟味する必要があるように思います。
■以前、日常の五心ということから次のような大事な指摘をいただきました。

はいという素直な心
すみませんという反省の心
おかげさまという謙虚な心
私がしますという奉仕の心
ありがとうという感謝の心

こういう五つの心というのが書いてありまして、それは全国的にこれは大事な心なんだと、日常はそういう心でもって生活すればこの世の中はうまくいくんだと、 恐らくそういうことだろうと思うんですね。(中略)宗教というものはそういうふうなことを教えるものだろうとさえ考えておるわけです。私はそういう言葉を見ていましてふと変なことを考えたんです。それはどういうことかといいますと、こういう言葉というのは実は上下関係の中で非常に有効な言葉であると。上下関係の中で非常に有効な言葉であるということに気がついたといいますか、あれっと思ったわけですね。例えば素直な心というようなことを私たちが非常にいいことだなあと思っているのは、自分が使う場合です。(中略)一般的に使われる場合どうしても親の言うことに素直であったりすることになる。或いは先生が子供に反省させる。子供が逆に先生に反省しなさいと言うたりしたら腹が立つ。こういう言葉というのは、実は逆に、下と上というのは変ですが、いつも使われる側が逆に使ったら、常に使っとる側は腹が立つ言葉ばっかりです。素直とか反省とか謙虚とか奉仕とか感謝とか、みんなそうですね。そういうことを私はまあ、ふっと思ったわけです。
『聖書と親鸞の読み方』ルベン・アビト 玉光順正著

■同じように「やり返すことはいけない」ということも上下関係の中で非常に有効な言葉ではないでしょうか。その論理で、社会的強者は益々、守られ、社会的弱者はいよいよ、あきらめさせられます。そしてそんな矛盾に満ちた差別社会が形成されてしまうのです。
■本来、そのことを課題とするのが宗教であるはずです。しかし、どうでしょうか…、「宗教というものはそういうふうなことを教えるものだろうとさえ考えておるわけです。」という言葉もありましたけど、何より、宗教者が問われていたのです。
■そもそも、私自身、差別されたり、排除されたり、抑圧されてきた社会的弱者の怨みにまでなった悲痛なる声にどこまで耳を傾けようとしてきただろうか。それどころか、僧侶の私こそが、教えの言葉を絶対として、そのような声々をかき消してきたのかもしれません。「やり返すことはいけない」と…。
■今、そのことを自覚しつつ、あらためて、米田富さんからの糾弾の声(表紙参照)に身を据えたいと思います。

 

編集後記

▼今号のような課題は、長浜教区の部落差別問題の学びの縁の中で、少しずつ私なりに感じるようになってきたことです。表紙の真宗大谷派に対しての糾弾の言葉(テープ)も各組の研修会で、2年間にわたって聞き直してきました。
▼繰り返しますが、住職記の釋尊の言葉が間違っているのではありません。勿論、「やられたらやり返せ」でもありません。ただ、考えるべきことは、私たちがどこに立って教えの言葉を語ったり、聞いたりしているのかです。親鸞聖人は社会的弱者の人たちを「いし・かわら・つぶてのごとくなる」と呼ばれ、そしてその人たちを「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」と仰いました。それは決して弱者への同情ではありません。もしそうならば、「いし・かわら・つぶてのごとくなるかれら」です。

私はどこに立っているのか

▼やはり、この一点が問われているのだと思います。

 


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