テーマ 一枯一栄(いっこいちえい)(105座)

2012(平成24)年3月1日


 

表紙

▲紙花

 

▲紙花

 

▲釋迦涅槃図

 

住職記

■一面に花が敷き詰められた葬儀式をよく見かける昨今、真宗では、お寺、当家、ホールでも必ず紙花という花をお備えします。
(表紙写真参照)
■なぜ、生花でもないこのような花を備えるのかと疑問を持たれる方も多いと思います。
■お釋迦様は一対四隅の沙羅双樹の下で亡くなられました。そしてその沙羅双樹のうち、片方は枯れ、もう片方はそれに反比例していよいよ活き活きと伸びていくのです。これを「一枯一栄」といい、実は、紙花はこれを形どっているのです。
(表紙写真参照)
■その「一枯」とは色身(肉体)、「一栄」とは法身(心)であると説かれます。
■この「一枯一栄」を宮城先生はこのようにいただかれています。

 これは私たちごく身近な自分の場合で考えますと、父が生きておる間、悲しいことにやはり自分の思いを父にぶつけて生きていました。だからこの自分の思いに応えてくれる時はやさしい父であり、応えてくれない時は、頑固な父であり、その時その時、やさしい父、頑固な父、と反応しておるだけでありまして、それが、死なれてみて、そして父が歩んだ道を同じように歩み始めて、あの時は、父は自分にこういう事を言いたかったんだなぁと、こういう願いを自分に向けておったんだなということを、それこそ遅まきながら、感ずるということがしばしばございました。悲しいことに生きている間は、思いと思いがぶつかり合い、そこに本当の出会いができずにおる。しかし色身が滅んだ時、初めて自分にかけられていた父の願いというものが、折に触れて蘇ってくる。そういう私にかけられた願いとしての父の存在というのが、法身でございましょうね。
『蓮如上人に学ぶ 白骨の御文について』宮城豆頁(みやぎしずか)講述より

■言うまでもなく、亡き人の肉体が滅びていくこと(一枯)は悲しいことです。しかしそれによって、はじめて亡き人の心に触れるということ(一栄)があるのだと教えられます。
■葬儀式に紙花を備えるところに、亡き人ともう一度、出会い直していこうとされた先人の願いを感じずにはおれません…。

 

編集添記

▼併せて宮城先生は、亡き人を目の前にして、私たちが、悲しみというものを深く感じるのは、その方から実にたくさんのものをいただいてきたからだとよく仰っていました。それまでは、そこにその人の姿が在るがゆえ、こちらからの注文、要求に明け暮れているわけです。しかし、そこにその人の姿がもう無いがゆえ(一枯)、こちらからの注文、要求が切り捨てられ、破られて「いただいてきたもの」がゆっくりとこの私に染み込んでくるのです(一栄)。

▼三月十一日、東北地方太平洋沖地震から一年が経ちました。長浜教区では、被災された方々に米と水をお届けしようという取り組みがなされています。(別紙参照 地元の方にはすでに配らせていただきました。)どうぞよろしくお願いします。私も協力させていただきます。 ↓下参照 

 


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