テーマ 「これでいいのだ」を考える(124座)

2014(平成26)年6月1日


 

表紙

鳥瞰図(ちょうかんず)も必要だが、地上を虫のように這いずりまわって生きている人間を捉えるには、いわば虫瞰図(ちゅうかんず)とでもいったようなものも必要だろう。鳥の視点も必要だが、虫の視点も重要だと思うんだ。石原氏の言動を見ていて非常に不満に思うのは、なるほど鳥瞰図的な構想は出すけれども、虫瞰図の方が全く欠けている。一人一人をとってみれば虫のような人間の組合せから成り立っているはずの政治を、鳥の視野からしか見ていないような気がする。石原氏ももとはといえば文学をやっていたんだから、もう少し人間の、虫の視点を考えていかなければいけないんじゃないか、と思うわけなんだ。

『タダの人の思想から』小田実(まこと)著より

 

住職記

■バカボンのパパの名セリフ「これでいいのだ」が数ヶ月前、同朋会館の廊下に掲示法語として書かれてあった。しかし、私は何か違和感を感じるものがあった。だいたい、「これでいいのだ」はどこまでも自覚の言葉であり、人から人へ語る言葉ではないと思う。
■この頃、「わが立つところを問う」という言葉を大切に思っている。そんな中で次のような文章に出会った。

 小学校三年生の仲良しのA君とB君が日曜日、二人で小高い山にお母さんに作ってもらったお弁当を持って登りました。頂上に登ったらちょうどお昼でした。さあ、お母さんの作ってくれたお弁当を食べようと座りました。すると草や藁(わら)や何かがあって気付かなかったのでしょう。そこに大きな穴があいていてA君がストーンと落ちてしまいました。助けてってどんなに言ってもB君が手を伸ばしても届きませんし、周辺に助けてあげることの出来る棒も綱も何もありません。一人の力ではどうすることもできません。A君は「助けてー、助けてー」と泣きます。そこでB君は「お母さんに言って戻ってくるね。待っててね」と言って走って山を下りお家に帰りました。 「お母さん、大変だー大変だー。A君が高い 穴に落ちてるんだよ。 助けてあげて」と言うので、お母さんはびっくりして助けに向かいました。二人でどんどん登りました。覗いてみました。「ね、お母さん、高い穴でしょ。」 って言うのです。A君を、ロープを使って二人で一生懸命助けた後に、「小学校三年生になったあなたが言うにはおかしいよ。ほら、この穴は高い穴じゃなくて深い穴でしょう。」 ってお母さんが言いましたが、B君は、「違う。お母さん、高い穴だよ」と言うのです。そこでお母さんは初めて気付くのです。そうだった。A君が落ちて「助けて」と言った時から、B君は自分も同じようにこの穴の中に落ちてそして早く助けなくっちゃと思っていたんだ。彼と同じように上がるべき地上を見上げては、高いなあ高いなあ…って。 
『わがこころのよくて ころさぬにはあらず』外松太恵子講述より

■わが立つところに、はっと気付くこのお母さんがとても印象に残った。
■同朋会館に全国から上山される奉仕団の人に対して、「これでいいのだ」の法語は、本山という山の上からの立ち位置によって、へたをすると「それでいいのだ」ということになりかねない。
■重ねて、わが教団に対しての米田富さんの言葉が思いおこされる。

あなた方の説教は差別助長になるんですよ。
きれいにしなさい
言葉は丁寧にしなさい
家をきれいにしなさい
そうして、
他所の人とはケンカしないようにしなさい
そうなるとね、
どんなことをやられても弱い者はあきらめなければ仕方ないんだと、
こういうようなあきらめを教えることになる。
そういう強いものは、
自分達の今やっている生活がこれで当然のことだという認識を与える。
そうすると差別する者の優越感が守られて、
差別を受ける、弱い立場におる者にますます卑屈感情を教えていくことになるんです。

■同じように、「これでいいのだ」によって、いよいよ強い者の優越感が守られ、ますます弱い者にあきらめを教えることになるのである。問題なのは、私たちがどこに立って教えの言葉を語っているのか、あるいは聞いているのかということである。
■今、表紙の言葉からひとつ教えられることは、上からの鳥瞰図の視点で「これでいいのだ」と語るのではなく、聞くのでもない。私たちに求められているのは、「これでいいのだ」とは決して言えない差別、排除、抑圧によって苦悩を強いられている人々の現実があるということに思いを馳せ、そのような人たちと共に生きる虫瞰図の視点である。親鸞聖人の「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」がまさにそのお姿であろう。

 

編集後記

▼鳥瞰図と虫瞰図の言葉は、折にふれて宮城豈頁先生が紹介してくださったもので、今回その原文を掲載させていただきました。これは小田実氏と石原慎太郎氏との対談なのですが、石原慎太郎氏はこの後、「政治は四捨五入だ」とまで言っています。それは少数派は切り捨てるということです。人は偉くなるほど上へ登ってしまい、鳥瞰図の視点で一人を見失ってしまうのでしょうか…。

▼私は不思議とバカボンのパパの言う「これでいいのだ」に対しては違和感を感じないのです。なぜなのか?、それはきっと、「これでいいのだ」がバカボンのパパのつぶやきだからだと思います。ましては、人にする説教ではないからでしょうね(笑)。ちなみに5月20日に上山した時には、同朋会館の「これでいいのだ」の法語は、違う法語に貼りかえられていました。やはり、かなり議論があったようです。ということは、それはそれで問題提起になったわけです。

▼「わが立つところを問う」の言葉は、1988(昭和63)年、真宗大谷派同和推進本部(現 解放運動推進本部)から出された過去帳閲覧禁止のステッカー配布についての文章の表題です。ここ数年、私にとってこの言葉がメインテーマになっています。

 

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