テーマ 「生命権」(147座)

2016(平成28)年6月1日


 

表紙

浄願寺の松(下写真)の葉狩をしてくださっていたTさんが先日、浄土へ参られました。(ご逝去)
2005(平成17)年10月18日、浄願寺の松は松食い虫の被害によって枯れ、伐採(下写真)しました。お寺に居る者の監督不行き届きを大変申し訳なく思うのですが、その時のTさんが言われたことがあらためて憶い起されます。それは次のような言葉でした。

「これの根本的な原因は地球温暖化や」
「人間が悪いんや…」

まき、木炭、石炭から石油への燃料革命によって、松食い虫の被害は昭和40年代後半から激しくなり「社会病」とも言われています。いつも自然界のバランスを破壊するのは人間の仕業なのです。
一代、植物に接し、他のいのちとともに生きることを肌で感じておられたTさんの、人間中心に生きる傲慢な者へのとても重いひと言です。

 

2005(平成17)年10月5日
上部から右方面から枯れています

 

2005(平成17)年10月18日
根元から伐採

 

住職記

※浄願寺通信に画像を加えて掲載しています。

 

「人権」から「生命権」へ

 前号で「人権」について少し書かせていただきましたが、さらにもっと深く考えさせられるこのようの文章があります。

 「人権」は大事ですが、
 人間以上に動植物の方がひどい目にあっている。
 なぜ「生命権」と言わないのか、不思議に思うのです。

『詩人まど・みちお100歳の言葉 どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』まど・みちお著より

 「人間以上に動植物の方がひどい目にあっている。」とありますが、実は人間によって動植物の方がひどい目にあっているのです。

 

絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)

 現に、国際自然保護連合のレッドリスト(2013年度版)によれば、約2万種が絶滅危惧種とされ、すでに地球から姿を消した生物は860種あると報告されています。これらの原因は、ほぼ人間にあると言っても過言ではありません。

 

ファッションのために

 勿論、他のいのちを食べなければ私たちは生きていけないのですがそれには留まらず、さらに増殖した人間の欲望によってファッションやグルメの次元で他のいのちが無残にも殺されています。

 


 

 写真は、JAVA(NPO法人動物実験の廃止を求める会)のホームページに掲載されていたもので、人間の着る毛皮のコートのために皮を剥がされたキツネの死体です。同じページに次のように書かれてあります。

 世界中で、ファー(毛皮)のために殺されている動物は、毎年7500万頭以上にものぼります(あまりに大量に殺されるウサギは、信頼できるデータがないため、含まれていません)。そして、コート、バッグ、帽子、アクセサリーなどに加工され、店頭に並べられます。1枚のファーのコートを作るために、リンクス(オオヤマネコ)は12〜15頭、キツネは15〜20頭、アライグマは27〜30頭、ミンクは60〜80匹、 リスは60〜100匹使われます。

 

グルメのために

また、人間のグルメのために殺されているいのちがあります。同じくJAVAのホームページにはこう書かれてあります。

 

フォアグラ(ガチョウやカモの肝臓)

 


 

足元は金網でこれ以上のストレスはありません

 

金属パイプをガチョウの口に差し込み、食道に強制的に餌を流し込み、約一ヶ月でガチョウの正常な肝臓を通常の10倍ほどにまで肥大させる。つまり、ガチョウを人工的に脂肪肝にさせるのだ。ガチョウは殺され、取り出された病的な肝臓は「世界三大珍味」のひとつ、フォアグラとなって、グルメと呼ばれる人間の口に運ばれていく。

 

中には、パイプを乱暴に押し込まれたためにくちばしが折れてしまったり(右左写真)、喉と食道に残留したコーンが腐敗して、口から体の内部にまでバクテリアと菌が増殖し、ひどい苦しみと様々な病気を引き起こすのです(左上写真)。そしてこの時点で殺処分されます。

 

十方衆生(じっぽうしゅじょう)

 仏教には「十方衆生」という言葉があります。それはすでに「生命権」のことを言い当てていたように思います。また親鸞聖人は

「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり。
『尊号真像銘文』親鸞聖人(真宗聖典521頁)

と言われます。「衆生」とは生きとし生けるものです。今、私たちは人間の留まることのない欲望によって無残にも殺されているいのちがあることを知らなければなりません。そしてそのいのちを決して「かれら」とするのではなく、親鸞聖人が教えられる「われら」と生きることが切に願われています。表紙の、Tさんが言われた「人間が悪いんや…」をずっと心に刻んで行きたいと思うばかりです。

 

編集後記

▼今回考えさせていただいた傲慢な私たちのことを親鸞聖人は

「罪悪深重煩悩熾盛」
『歎異抄』真宗聖典626頁

と、あるいは、蓮如上人は

「罪業は深重なりとも」
『御文』真宗聖典832頁

また、源信僧都は次のように言われました。

「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
『往生要集』(念仏証拠)

6月10日は、源信僧都の一千回忌です。999年の時を経て今、いよいよ「極重の悪人」の呼びかけを聞き直さなければなりません。

 


▼浄願寺通信一覧に戻る

 

<<前のページ | 次のページ>>