テーマ 2022年 報恩講(225座)

2022(令和4)年12月1日


 

11月18日(金)から11月20日(日)、浄願寺に於きまして報恩講法要(お取越)が勤まりました。ここに写真を掲載しご報告させていただきます。合掌


 

↑11月13日(日)朝 仏具のお磨き(浄願寺婦人会)

 

↑11月17日(木)夜 内陣 荘厳

 

↑11月17日(木)夜 お華束盛り

 

↑11月17日(木)夜 竹灯籠設置(西村厚子さん 野村良雄さん)

 

↑11月17日(木)夜 竹灯籠設置

 

↑11月18日(金)朝 山門 提灯設置 幕張り

 

↑11月18日(金)朝 玄関 幕張り

 

↑11月18日(金)朝 玄関 向拝 幕張り

 

午後1時半 初逮夜

↑映像 浄願寺御遠忌法要

 

11月19日(土)午前6時半 晨朝

↑法話 一色孝氏(朝日 光西寺)
三言
●遇うとは偶然であり必然である。
●「もろた」「まいらせてもろた」の湖北の言葉、そこに浄土がある。
●念仏は仏と私の呼応の声。

 

午前10時 日中

↑法話 禿子慈孝氏(北方 通来寺)
三言
●生きづらさって何だろう。
●「生苦」とは、「生きる苦しみですか」それとも「生きていく苦しみですか」かどちらですか?。
●本堂再建の時、ここは教えを聞く場であることが強く問われた。

 

午後1時半 大逮夜

↑法話 高山崇氏(山階 圓乗寺) 
三言
●コロナの中でも無二の報恩講は勤められる。
●はじめに尊敬あり。
●人はみんな、実は仲良くなりたいのです。

 

11月20日(日)午前6時半 結願晨朝

↑御文拝読 『鸞聖人』 澤面章氏(当寺)

 

↑法話 越本達了氏(大阪 専光寺)
三言 
●ここに、御遠忌の余韻、香り、ぬくもりを感じる。
●今はもう居られない方もここに座っておられる。
●いのちは非常事態宣言発令中。

 

午前9時15分 子ども報恩講

↑満日中の献花まで、余間で待機

 

午前10時 満日中

↑子どもたちから献花

 

↑法話 越本達了氏(大阪 専光寺)
三言 
●皆、それでよいのかという声をもっている。
●別れて初めて出あうことがある。
●娑婆は寂しくなるが浄土は賑やかになる。

 

↑お礼の言葉 藤田輿史雄氏(当寺 門徒総代長)

 

法要式次第

十一月十八日(金)
■午後一時半 初逮夜 
 正信偈 真四句目下(同朋唱和) 
 念仏讃 淘五
 和讃 弥陀成仏のこのかたは 次第六首
 回向 我説彼尊功徳事
 映像 浄願寺御遠忌法要 

十一月十九日(土)
■午前六時半 晨朝 
 正信偈 中読(同朋唱和) 
 念仏讃 淘五
 和讃 道光明朗超絶せり 次第六首
 回向 世尊我一心
 御文拝読 『中古以来』 
 法話 一色孝氏(朝日 光西寺)

■午前十時 日中
 正信偈 真四句目下(同朋唱和) 
 念仏讃 淘五
 和讃 光明月日に勝過して 次第六首
 回向 願以此功徳
 御文拝読 『御正忌』 
 法話 禿子慈孝氏(北方 通来寺)

■午後一時半 大逮夜
 正信偈 真四句目下(同朋唱和) 
 念仏讃 淘五
 和讃 五十六憶七千萬 次第六首
 回向 我説彼尊功徳事
 御文拝読 『聖人一流』
 法話 高山崇氏(山階 圓乗寺) 

十一月二十日(日)
■午前六時半 結願晨朝
 正信偈 真読(同朋唱和) 
 念仏讃 淘五
 和讃 南無阿弥陀佛の廻向の 次第六首
 回向 世尊我一心
 御文拝読 『鸞聖人』 
 法話 越本達了氏(大阪 専光寺)

■午前十時 満日中
 正信偈 真四句目下(同朋唱和) 
 念仏讃 淘五
 和讃 三朝浄土の大師等 次第三首
 回向 願以此功徳
 御文拝読 『御俗姓』
 法話 越本達了氏(大阪 専光寺)

 

編集後記

▼今回の竹灯籠はすべて西村厚子さんの作品です。華やかな光明をありがとうございました。
▼今年もまた「ほんこさん」が体に染み込んでまいりました。準備から色々とお世話をしてくださいました総代さん、婦人会の皆さん、子どもたちにお菓子をくださいました北川政嗣さん、そして皆さんありがとうございました。
▼本文の文責はすべて住職にあります。
▼写真はホームページで詳しくご覧になれます。
▼4頁はつい先日、名古屋別院発行のリーフレット「あなたとつむぐ報恩講」に書かせて頂いた文章です。下参照

 

↑記念写真

 

↑たくさんの作品の中から「南無阿弥陀佛」

 

「あなたとつむぐ報恩講」

 報恩講は親鸞聖人と出あう最も大切な御仏事です。それでは親鸞聖人ってどんな人なのでしょう。そのことで最初に思い出されることがあります。それはある時、唯円さんは勇気を出して「お念仏をしても喜ぶことの出来ない私なのです…」と師の親鸞聖人に正直に告白されます。それに対して親鸞聖人は「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」『歎異抄第九章』と、「親鸞も…同じこころである」と答えられたのです。
 そしてこの親鸞聖人の「も」の世界と重なる、松本梶丸さんのお子さんが小学校二年生の時に書いた作文を紹介させて頂きます。

「今日、お昼を食べたあと、よっちゃんと遊ぶ約束をしました。いつまで待ってもこないので、よびにいったら、どこかへ遊びに行っていませんでした。少したってもう一度行ってみましたが、まだ帰っていませんでした。僕もときどき約束を忘れることがあります。」『歎異抄に学ぶ』松本梶丸著

 松本梶丸さんは、約束を破った相手を責めず「僕もときどき約束を忘れることがあります」と受け止めたことが無性にうれしく、わが子ながら頭が下がったと言われています。さらにこの作文を読んだ先生は、そこの一文に傍点を打って「私もときどき約束を忘れることがあります」と書き添えてくださった先生のこころにも深く感動され、そして最後、学校にも、家庭にも、この「も」の一字が見つかっていないのではないだろうかと問いかけておられます。
 今、反対の「が」の独りぼっちの道を行く私たちに、温かい「も」の共なる世界が教えられます。そこへ皆が「煩悩具足の凡夫」『歎異抄』に帰るのです。それは決してお互い情けないと悲嘆することではありません。その後、親鸞聖人の言葉が「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」『歎異抄』と続くように、いよいよたのもしい他力の悲願の中で、「も」の世界をわれらとして生きられたのが親鸞聖人です。

 


 


 


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