吾々が親さまを呼び、親さまが答へる、そうではない。
吾々が親さまを呼ぶということ
そのことが親さまの喚(よ)び声である。
吾々が親さまを呼ぶということ、
そのことの外に親さまの喚び声と云うものはありはしない。
曽我量深
『曽我量深選集』五巻より
▼人は行き詰まり境地に立たされた時、
最後思わず母親を喚ぶと言われます。
それは「お母さん」、「はあい」から始まるのではなく、
すでにして喚び続けるお母さんが先だからです(住職記)
おかあちゃんが
きをつけてねといった
ぼくは
はい いってきますといった
おかあちゃんのこえが
ついてきた
がっこうまでついてきた
■これは小学一年生のあかぎかずお君の作文です。長浜警察の掲示板に交通標語として書かれていました。
もう16年も前のことですがその時早速、通信の表紙にそのまま掲載させて頂きました。
■そしてその時に今でも心に残っていることがあります。それは月参りでその通信をお渡しした時のある門徒さんとの会話です。その方は作文を読んで開口一番の「このお母さんすごいですね。」の後になんと、「お母さん、最後学校までついて来られたんですか」と言われたのです。
■私は一瞬…、そうなのかと分からなくなりましたがだんだん冷静になり、おそらくそうではないと思いながら「お母さんは学校までついて来られていないと思いますョ。きっと学校にお母さんの声だけがぼくの耳にこだましているということではないでしょうか。」と話しました(笑)。
■このようなやり取りから、この方のおかげでこの作文をより深く頂けたように思いました。きっと、学校にはお母さんはいないのです。でもあかぎかずお君が教えてくれることは、ここにお母さんはいないけれど、ぼくはお母さんの声の中にいるということなのです。まさに表紙の曽我量深先生からも教えられる喚び声の世界です。
■考えてみれば、同じく法事がそうであると思います。そこに亡き人の肉体も肉声もありません。しかしこの法事をひらいてくださるのは他でもない亡き人です。
■「がっこうまでついてきた」からさらに言えば、何回忌という法事に何年何十年経っても私たちについて来られるのです。私たちにずっと寄り添ってくださるのです。
■亡き人の声の中に私たちはいるのです。この一点を確かに頂きたいと思います。
■しかしながら人は皆、「私はこう思う…」という持論に明け暮れ、万事自分の声の中でしか生きていないのではないでしょうか。
■実は「きをつけてね」はそのお母さんと同じく、亡き人の喚び声でもあると思います。それは人生全体をどうか「きをつけて」であり、つまり大事に生きよという声です。
■そのような亡き人の声の中にいるからこそ、私たちは耳を澄ませて聞かなければならない声があります。誰一人例外なく死すべき者として、厳しくも次の喚び声です。
お前も死ぬぞ(毎田周一)