滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-
●テーマ 日の善し悪しはあるのですか?(22号)
2002(平成14)年1月1日
表紙
●Q(問)
日の善し悪しはあるのですか?
●A(答)
日の善し悪しは、まったくありません。
日の善し悪しには、カレンダーにも記載される、
先勝(せんしょう)
友引(ともびき)
先負(せんぶ)
仏滅(ぶつめつ)
大安(たいあん)
赤口(しゃっく)
の六曜がよく用いられます。
六曜のルーツは、中国の宋、元の時代に流行したといわれる時刻占いのようです。これが室町時代にわが国に伝えられ、口伝えされるうちにずいぶん文字も変化し、やがて、日の占いになったといわれています。明治6年(1873年)に太陽暦が採用され、いっさいの暦占い記事が禁止されたことに対して、ひそかに民間で出版された「おばけ暦」が始まりとなって、現在のような六曜が暦に掲載されるようになったといわれています。こんにちの六曜は、中国の占いを日本人の感覚にあうようなことば、スタイルにかえた暦の占いにすぎないようです。
しかし、現実には、葬儀は友引の日を避け、結婚式などは、仏滅を遊けて大安を選ぶなど、例をあげれぱきりがないほど、日の善し悪しにふりまわされています。
「自分は、そんなに気にしないけれども、世間の人がいうから…」
という人もあります。
日の善し悪しにつけ、世間のつきあいにつけ、結果的には、ずいぶん窮屈な生活をしています。
結局は、自分にとってつごうのよいことをひたすら追求し、つごうの悪いことの口実を、日がらと世間におしつける、自己中心的なこころのあらわれにすぎません。
真宗門徒は、けっして日の善し悪しを気にしません。自分のものさしで、損か得か、善いか悪いかをはかるのではなく、阿弥陀仏のものさしで、うそかまことかをはかることのたいせつさをこころにかけているからです。どうしても自己中心的にしか生きられない自分の姿を阿弥陀仏に教えられ、阿弥陀仏からいただく生活を、わが身の事実とうなづいていくのが、真宗門徒なのです。
私にとってどんなにつごうの悪い一日であっても、阿弥陀仏からたまわったかけがえのない一日を、私たちは生かされています。その日に善し悪しがあるのではなく、その日をうけとめる私たちのこころに善し悪しの計算があるのです。
親鸞聖人が、『和讃』(聖典P.509)のなかで
かなしきかなや道俗の
良時吉日えらぱしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
となげいておられることを、肝に銘じて生きているのが真宗門徒です。日の善し悪しを気にする、自分自身の生きる根本姿勢を今一度、問いなおしてみたいものです。
↑『真宗門徒になるための本』真宗大谷派大垣教区出版委員会より引用
▼住職から最後のひと言
こんな言葉があります。
いわれなき迷信を信じる心が
いわれなき差別を産み出し温存する
昔からそうらしい…ということによって、どれほどの人々が傷つき、涙を流し、時には生命までも奪われてきたことか。日の善し悪しをえらばない、そのことは、人間回復への第一歩だと思います。
-浄願寺 -
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