滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-
7、『いのちのまつり』
引き続きましてよろしくお願いします。今回は「無量寿」―湖北の伝統をいただきなおすーというテーマでお話させていただいております。前席で、歳の数え方を「満年齢」じゃなく「数え年」。赤ちゃんの誕生を「作る」じゃなく「もらう」という伝統、そして、私の生まれるには、限りなく親が居てくださるということ。果てしないいのちの繋がりがあるということ。そのことを一休さんの話からもいっしょに考えてまいりました。次にご紹介するのは、サンマーク出版から出ています『いのちのまつり』という可愛いらしい絵本です。
この話も先の一休さんとよく似ていて、縦(親)のいのちの繋がりを教えてくれます。この登場人物のコウちゃんという男の子とおばあさんがいのちについて、あれこれ会話をします。この絵本、細かいことを言うと多少、引っかかる内容もあるのですが、今日はポイントとなる頁だけ読みますね。
「ねえ、おばあさん、ぼくのご先祖さまって何人いるの?」
「そうだね〜……」
コウちゃんは、指をおって数えてみることにしました。
「ぼくにいのちをくれた人、2人」
「お父さんとお母さんにいのちをくれた人、4人」
「おじいちゃんとおばあちゃんにいのちをくれた人、8人」
「ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんにいのちをくれた人、16人」
「そのまた上に、32人」
「そのまた上に……」
「もう数えられないよ」
「ぼくのご先祖さまって、1000人くらい?」
「もっともっと、いるさ〜ね」
「じゃあ。100万人くらい?」
今度は思いきって言ってみました。
「どうだろうね〜。ずっとずっと宇宙のはじまりから、いのちはつづいてきたからねぇ〜」
「オバアにわかるのは、数えきれないご先祖さまが誰ひとり欠けても、ぼうやは生まれてこなかった、と言うことさぁ〜。
だから、ぼうやのいのちは、ご先祖さまのいのちでもあるわけさぁ〜ね」
「なんだか、ぼく、不思議な気持ちがしてきたよ」
『いのちのまつり』ヌチヌグスージ
作 草場一壽 絵 平安座資尚 サンマーク出版より
8、皆、このいのちをいただいているから
このような絵本です。コウちゃんの
「ぼくにいのちをくれた人、2人」「お父さんとお母さんにいのちをくれた人、4人」
これは先ほどの一休さんですよね。そして、
「もう数えられないよ」
とありますが、それこそ無量寿です。繋がってきた親の数が「数えられないよ」です。
この絵本、ここからは縦にめくるようになっています。さらに、もう一回縦にめくれるんです。このね、最後の頁を開けた瞬間、どこでも、みんな
「うわあ〜」
という声で、好(い)い顔しています。今日の皆さんも、実に好い顔していましたよ…。最後のこの頁、凄いですよね、私は、もうこれがやりたくて(頁をめくること)、日曜学校でもね、だいたい、子ども報恩講(ほうおんこう)のときにこの本を読むようにしています。だから破れたりで、随分古くなってきましたけど、子どもらもね、このめくった瞬間、好い顔します。
これ、なんでみんなが、好い顔するかと言えば、皆、このいのちをいただいているからなんですよね。間違っても、浄土真宗に帰依したから、こんな尊いいのちをいただいたということではありません。浄土真宗以外の、キリスト教に生きる人も、イスラム教に生きる人も、無宗教の人も、みんなこういういのちを生きている。また、日本人だけじゃなくって、アメリカの人も、アフリカの人も、ヨーロッパの人も、アジアの人も、全世界のすべての人が無量寿のいのちを生きている。だから、同じ表情です。「うわあ〜」なんですよね。
9、誰ひとり欠けても私ではない
最後の頁に、おばあさんの
「数えきれないご先祖さまが誰ひとり欠けても、ぼうやは生まれてこなかった」
という言葉がありますが、そうなんですね。ひとりぐらいええやんって思うかもしれませんが、誰ひとり欠けてもだめなんです。ひとりでも欠けていたらコウちゃんではありません。私ではないのです。さっきの一休さんの十億七千三百七十四万一千八百二十四人の数をとってみても、そこからひとり欠けても私ではないのです。
10、一人ひとり顔がある
この最後の頁、よう見ていただくとね、一人ひとり、皆、顔があるんです。そんなん、当たり前やと思うかも知れませんが、ちゃんと描かれています。これね、顔があるということは、一人ひとりがいたということなんです。一休さんの十億人で言えば、十億の顔があり、十億の人がいて、十億の人生があったということなんですよね。皆さんと同じように、実に色んなことがあった一代を生き抜かれた人たちが、一人ひとりいらっしゃったということです。決して、
「たくさん」
という数字ではなくて、そこに、一人ひとりの存在の重さがあるということです。
11、不思議ということ
最後の頁、もう少し続きを読みますね。
「だから、ぼうやのいのちは、ご先祖さまのいのちであるわけさぁ〜ね」
「なんだか、ぼく、不思議な気持ちがしてきたよ」
とあります。コウちゃんの言う通り、私たちのいのちというのは、本当に不思議ですよね。この不思議という言葉ですけど、私たちは日ごろ、不思議と言えば、意味不明なことや、あり得ないことが起こった時、また、怪奇現象やオカルト的なことをイメージするのではないでしょうか。
そのことをですね、池(いけ)田(だ)勇諦(ゆうたい)先生がこのように教えてくださいます。長浜別院のしんらん講座で言われた言葉です。
「仏教でいう、不思議、あるいは不可思議とは、事実に頷(うなず)いた感動をいう」
この私たちのいのちの話は事実です。決して、作り話ではありません。事実に対して、
「なんだか、ぼく、不思議な気持ちがしてきたよ」
です。私が在るということは、この事実をもって在るということです。そして、誰もが同じようにこの事実を生きておられるという、そのことへの驚きが不思議ということです。
実は今日、私たちも、さっきお勤めをしました。
「帰命無量寿如来、南無不可思議光」。
正信偈のこころがすべて凝縮されているといわれるこの二句も、親鸞聖人の事実に頷いた感動です。
皆さん、ここらでは「不思議のご縁」という言葉を使われますよね。だいたい、尊いご縁の際にです。例えばお参りの時なんかに
「今日は、不思議のご縁で参らせてもらいました。」
と言われます。
私が仏縁に遇わせていただくのは、私に先立って、数限りのない人たちのお手回しがあってこそなんです。そのことへの驚きの言葉が、「不思議のご縁」なんだと思います。決して、サイコロ振って、一が連続十回出たとか、たまたまそのへんを歩いていて偶然、参らせてもろた、というそういう次元の言葉ではありません。
だから、生は偶然などとよく言われますが、私が生まれてきたのは、偶然に生まれてきたのではありません。そんな偶然という言葉では言い尽くせないほど、無量のいのちが、一人ひとりの人生が、次に繋がり、また次にと、繰り返されるいのちの繋がりという、その事実の上に私がこうして生まれてきたのです。そういう意味で、皆、生まれるべくして、生まれてきたのではないでしょうか。
どうでしょう、この「不思議のご縁」という言葉を考えても、これは「満年齢」とか「作る」の文化からは到底、生まれてきませんよね。やはり、「数え年」。特に「もらう」の言葉と重なるように思います。
12、いのちが繋がるための約束
今、いのちの繋がりというところまで、お話させていただきましたけど、そうなんですね。
「誰ひとり欠けても、ぼうやは生まれてこなかった」
という、セリフもありますし、絶対にいのちは繋がっています。どこ一つ切れていません。
しかし、それはただ漠然と繋がってきたのではないのです。そのことをですね、私は祖父江文宏さんから教えていただきました。このことも長浜別院なのですが、「御坊さん人生講座」でお話くださいました。この方は暁学園の園長をされていました。子どもたちからは「園長スケ」と呼ばれているぐらい、慕われているんですね。園長先生という敬意じゃなくって、スケが付いているんです。子どもたちとそんな関係を生きておられた先生でしたが、五年前、二〇〇二年(平成十四年)六月一日に亡くなられました。
祖父江文宏さんは、いのちはずっと繋がっているということから、さらに、そのいのちの繋がりの過程において、すべての親が果たしてきてくださったことがあるのだと話されました。確か、そのことを約束と表現されたと思います。
祖父江文宏さんはいのちが繋がるための約束について、まず、
「生まれたての赤ちゃんをそのまま放置するとどうなります?」
と聞かれました。どうでしょう、どうなるもこうなるもただ泣くだけですよね。それにくらべて、亀の子はね、立派なんです。ちゃんと海へ帰ります。しかし、人間はだめなんですね。泣くだけです。祖父江文宏さんは言葉をこう続けられました。
「生まれたての赤ちゃんをそのまま放置すると、約八時間で死んでしまいます。ということは、人は自分では何も出来ない、全部を他人からしてもらう…、そういう者として生まれて来たんです。その赤ちゃんは何を信じて生まれてくるかというと、それは自分のことを受け入れ、守り、庇護(ひご)し、育ててくれる人がいる、ということをです。実はそれが先に生まれた者と、後に生まれた者との約束。いのちといのちが繋がるための約束です。」
13、私はいつもひとりではなかった
一休さんの十億人で言えば、十億の約束が果たし遂げられてきたいのちなんですね。だからこの世に生を受けたものは、すでにこの約束が無量に果たされてきたわけですし、私が八時間でなく、今、こうして生きているのは、私の誕生の時も、やっぱりこの約束が果たされてきたからなのです。
さて、生まれたての私を受け入れ、守り、庇護し、育ててくれた人、それは誰でしょうか。お母さんですか? でも、お母さんがいない場合もありますよね。産後とともに亡くなる方もありますし。要は、お母さんのようなことをしてくれた人がいたんです。もっと正しく言えば、決して、私はひとりではなかったということです。これは、八時間までの話ではありません。今日に至るまで、私たちは、いつもひとりではなかったんです。
14、「天上天下唯我独尊」
それにしても、ただごとではありませんよね。私までに、無量の数があり、無量の顔があり、無量の人生があり、無量の約束があり、誰ひとり欠けてもだめであり、どんな時もひとりではなかったいのちを生きている私です。実は、一人の人間の凄さというのは、すでにして、誕生にあるのだと思います。それにくらべて、私たちは誕生から死ぬまでの間、それこそ満年齢ですよね、その生きている間に、あれや、これやと夢を描き、いかに、何か立派なことをやり遂げるかということに、人間の価値を見ていないでしょうか。そんなふうに生きる限りは、周りの人は、競争相手になってしまいます。せいぜい、利用出来るか、出来ないかぐらいにしか見れません。しかし、本当はそうではありません。だから、お釋迦様が誕生とともにこう叫ばれたのです。
「天上天下唯我独尊」
天の上にも天の下にも、唯(ただ)、我(われ)、独りとして尊い。これは、決して、威張っているわけではありません。威張っているのなら、「天上天下唯我独偉」です。これなら、この世で自分ほど偉いものはないという、傲慢極まりない、比較に立った言葉です。しかし、そうではなく、「独尊」と言われるのは、決してくらべることの出来ない、かけがえのない存在として、自分を観ているのです。その自覚が同時に、一人ひとりが尊いのだという目覚めなのでしょう。私たちはどちらで観ているでしょうか。周りを、自分を「独偉」か「独尊」か。
ある先生から、お釋迦さんが生まれた時、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたということは、お釋迦さんが言いたかったのは、もうこれだけなんだ。仏教はこのことひとつなんだと教えられました。今、もうひとつ、お釋迦さんの言葉を思い出すことです。
あなたはあなたに成(な)ればいい、あなたはあなたで在(あ)ればいい
『法句経』
15、念仏は請求書ではなく 領収書である
私がこちらへ入寺した頃、村の何人かのお年寄りから聞いた言葉ですが、
「小さいときからなあ、阿弥陀さんの前でなあ、お願い事をするもんやないんやぞって、そういうふうに言われてきたもんや」
とお互いに言い交わしてきたようです。このことをさらに深めるのが米澤英雄先生の
念仏は請求書ではなく 領収書である
という言葉です。お願い事というのは、これは請求書です。初詣に代表されるように、お金が儲かりますようにとか、病気が治りますようにとか…です。ただ、それだけ現代、皆が追い込まれているわけですよね。それを頭から否定など出来ません。だいたい、人間は願ってしまうんです。そうですよね。例えば、車を運転していても、前の信号が青の時、「変わらんといてくれ」って思いながら、運転しています。
「青信号 俺が行くまで 変わるなよ」
ってね、常に何か願い事ばかりです。ああなれ、こうなれでしか生きていません。でも、だからこそ、「お願い事をするもんやないんやぞ」って、こんなふうに繰り返し確かめられてきたように思います。
米澤英雄先生は、請求書ではなく、領収書であるといわれます。そのことを考えると、「お願い事をするもんやないんやぞ」の後に
「お前にかけられている願いを聞いていくんや」
と、このような言葉が付くかと思います。どうですか、私たちが、仏(親)に願いをかけるんじゃなくって、仏(親)からかけられている願いを聞くのです。
私たちは願いをかけるほど、かけられてきた願いを見失います、そうですよね。お父さん、お母さん…、って、この気持ちは大事です。でも、してあげたという、そういう気持ちで満足してしまうと、私にかけられている願いを見失います。悲しいかな人間は、願いをかければかけるほど、私にかけられてきた願いを見失う存在なんです。法事なんかでも、
「これで、亡き人も喜んでくれていると思います。」
このような言葉が出る時は、甚だ危ないのではないでしょうか。大事なことは、こちらからではなく、向こうからです。
16、「共に生きよ」
それなら、私たちにかけられている願いって、どういうことなのでしょうか。そのこともやはり、祖父江文宏さんのお話から教えられます。
それは、放置しなかったという約束が果たされてきたいのちを私たちは生きているのですから、私たちにかけられている願いは、そのまま
「放置するな」
とまず、いただいてもいいと思います。
先ほど、組長さんが、
あれは嫌い これは駄目 あいつは困る こいつは…と 切り続ける私はどうもハサミのようだ
という、平野修先生の言葉を紹介されましたけど、それこそ「放置するな」と「切るな」は同意語なんでしょう。日ごろ私たちは、自分の願いに合わない人を切り続けるのですが、私にかけられている願いは、
「切るな」
です。さらに言えば、
「共に生きよ」
という、私にかけられている願いは、このひと言に尽きると思います。
だから、例えば、
「もうあんな奴、知らん」
と日ごろ、こんなふうに言う時がありますけど、やっぱり、気になるんですよね。どこか、心の深いところでうずくんです…。それは、
「共に生きよ」
という願いが、どこまでも、私に、はたらき続けているからだと思います。
法事などでも、それまでは、気まずさがあったりして、ちょっと会いたくないなあなんて思っていても、いざ顔見たら、会うと、やっぱりうれしいことってありますよね。これも、
「共に生きよ」
と願ういのちを私も生きているから、そのいのちが感じとっているのだと思います。本願に呼応しているということなんでしょう。今日、最初に唱和しました、三帰依文です。
「まさに願わくは衆生とともに」
「本願(ほんがん)」の「願」の上に「本」が付くように、「願わくは」の上に「まさに」という言葉があることからも、「衆生とともに」とは、私の小手先の願いではないということです。あれが欲しい、これが欲しいというような小手先の願いは、所詮、それこそ満年齢の願いでしかありません。そうではなく、無始よりずっと繋がってきたいのちの、私までにかけられてきた願いの結集が「衆生とともに」なんだと思います。だから、やはり、
「共に生きよ」
という、このひと言に尽きるのだと思います。
17、「どんなときも、くらべることなく、大切なことは、あなたがあなたであること…。」
最後に、祖父江文宏さんの文章を読ませていただきます。祖父江文宏さんは、六月一日に亡くなられたと言いましたけども、その二ヶ月を切った、四月十日に、呼吸困難の中、酸素ボンベを横において、声かれがれでお話をされました。まさに遺言(ゆいごん)です。これが「悲しみに身を添わせて」という本になっています。
人は常に「死んじゃいけない、大切に生きていきなさい」と語りかける声の基(もと)を持っています。語りかける声を常に持っています。それは四億二千万年前から受け継がれてきた様々な生き死にが、一つの意志となって私一人の尊さの中に呼びかけてくる言葉です。どうかその声に耳を傾けてください。だからあなたは生まれてきたんだし、だからかけがえのないあなたであるのだから。
祖父江文宏さんは無量寿をいのちのルーツとして、「四億二千万年前」と表現され、そのいのちの中に
「語りかける声の基」
があり、そんないのちを皆が生きているから、誰の中にも、
「語りかける声」
があると教えてくださいます。そして、最後、こう結ばれました。
私はおそらくこの何ヵ月後かに死んでいきます。その私があなた方に残せるものは、あなた一人を光り輝かせるような光になれる。私もまたあなたに「大丈夫だよ。生きていけるよ。しっかりおやりよ」と語りかけるいのちになろうと思っています。今日あなた一人に出会えたこと、本当に幸せに思います。ありがとう。さようならは言いません。ありがとう。
「語りかけるいのちになろうと思っています』と言われるように、「大丈夫だよ。生きていけるよ。しっかりおやりよ」は、私の中にある声です。先ほどの、
「天上天下唯我独尊」
「あなたはあなたに成ればいい、あなたはあなたで在ればいい」
「共に生きよ」
と重ねながら、今、その声をこんな言葉でいただいています。
「どんなときも、くらべることなく、大切なことは、あなたがあなたであること…。」
ただ、これを優しい声としてだけ聞いてはいけないと思っています。優しさだけなら、神秘です。癒しです。もっと言えば、酔っぱらっているだけです。いのちの繋がりは、親(縦)だけではありません。横の繋がりもあります。今日、ここにいる私たちの関係はほとんど横です。それに、その関係は人間だけではありません。一切衆生です。
そして、私たちが何よりも心しなくてはいけないのは、食べてきたということです。肉や魚、野菜もすべていのちです。それを食べ続けてきたということです。殺してきたいのちから、いつも、厳しく私の生き方が問われているのです。そうですよね、
「いのち、ありがとう」
って、ただ喜ぶだけなら、それはとんでもない間違いです。今日まで私に食べられてきたいのちが「いのち、ありがとう」では承知しません。黙(だま)っていませんよね。
「お前がお前に成らんで、誰がお前に成るんや」
と言わんばかり、それは殺されてきたいのちの叫びでもあるのでしょう。
人とくらべて、勝った、負けたで、一喜一憂して、私の人生を終わらせるわけにはいかないということです。
そうそう、もし満年齢を使うなら、私が食べてきた年数です。オギャーから今日まで、どれほどのいのちを殺してきたことでしょうか…。
「どんなときも、くらべることなく、大切なことは、あなたがあなたであること…。」
優しさと厳しさがひとつになって、常に呼びかけられている私たちです。
これで終わらせていただきます。この度は、誠にありがとうございました。失礼いたします。
-浄願寺 -
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