滋賀/長浜 真宗大谷派浄願寺

滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-


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1、いること
どうも皆様こんにちは。今年も第二十組(そ)の同朋大会という、身に余るご縁を賜りまして、本当にありがとうございます。どうか足の方は、お楽にしていただきますようによろしくお願いします。
今回、第六回目の同朋大会ということで、私にとりましては昨年からこれで二回目のご縁です。昨年、自己紹介させていただきましたが、平成五年に大阪から相撲(すまい)町へご養子として入寺させていただきました。自分で「ご」を付けるようにしています。(笑)
去年は、湖北の伝統をいただきなおすということで、あらためてここに住んでいる者こそ、当たり前にしているのではないかということから「無量寿」をテーマにしました。今回もまた、大きなテーマになってしまったのですが、
「一人〜その存在の重さ〜」、
ということでお話させていただきます。
今、私たち、一人ひとりがこうして生きているわけですけど、その一人ひとりの重さ、そのかけがえのなさですね、実は仏教は、あなたがここにいるということがどんなに大事なことか、その存在の重さ、その一点を説くのだと思います。まさに、お釋迦(しゃか)さんの誕生の言葉
「天上(てんじょう)天下(てんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」
です。
自坊におきまして、一年程前から、ホームページを開かせていただいています。その中の住職記の頁をそのまま印刷して、今日、皆さんに配らせていただきました。
まず、一番上の詩が、今日のテーマ、一人〜その存在の重さ〜を実に的確にうたっている「ぼくがここに」という詩です。読ませていただきます。

ぼくが ここに   まどみちお     

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに 
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として

まどみちおさんから教えられるのは、ずばり
「いること」
ということの大事さですよね。ここにあなたがいるということが、何よりもすばらしいことなんだと、一人の重さです。こういうふうにですね、まどみちおさんは表現してくださっています。
2、応機
皆さん、赤本(あかほん)(勤行本(ごんぎょうぼん))をお持ちですか、ちょっと開けていただけますか、真宗(しんしゅう)聖典(せいてん)でも結構です。
そこにある『正信偈(しょうしんげ)』は
「帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)」
から始まり、依(え)経分(きょうぶん)と依(え)分釈(しゃくぶん)に別れます。一三頁の
「難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)」
までが依経分。一四頁の
「印度西天之論家(いんどさいてんしろんげ)」
からが依釈分です。「印度西天之論家(いんどさいてんしろんげ)」の印度とは、そのままインドのことです。中夏、これは中国です。日域、これは日本ですね。だから後半の依釈分は、お経をインド、中国、日本の七(しち)高僧(こうそう)、龍樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)、源信(げんしん)、源空(げんくう)(法然(ほうねん))に至るまで、その方々が注釈してくださったことを拠り所として、展開している文ですので依釈分と、こういう別け方をしています。
一四頁に
「明如来本誓応機(みょうにょらいほんせいおうき)」
とあります。その七高僧が何を明らかにしてくださったか、これが「明」という字ですね。何を明らかにしてくださったかというと、その次の言葉です。
「如来本誓応機」
です。その明らかにされてきた内容というものは、如来の本誓、機に応ぜることを明(あ)かす。だから一言で言うと、
「応機」
なんです。如来の本誓は仏の本当の誓いは、機に応ぜるです。この「機」というのは、人間のことです。あるいは「私」のことです。ですから、仏はどこまでも私に応じてくださる。どこまでも、私に寄り添ってくださる。一人ひとりに…という「応機」です。
キリスト教でしたら、まず神がいて、まず天国があって、そして人間が作られた。アダムとイブといわれますね。エデンの園で、結局、約束を破ったため、アダムとイブがそこから追放されるわけですけど。それは、まず神がいて、天国があり、そして人間が後なんです。まあ、この辺のキリスト教のことは、勉強不足の私なんかが言えることではありませんけど…。
しかし、仏はそうではなく、この応機というのはね、どこまでも人間が先だ、人間の事実が先だと、こういうふうに教えられるわけです。
キリスト教において神の国は天国ですけど、仏教では、仏の国、世界を浄土と言います。でも浄土という一つじゃないんですね。あらゆる言葉で仏の国が表現されていくのです。それは応機だからです。どこまでも人間に応じて、人間に寄り添い応えてくださってきたから、あらゆる表現をとるわけなんですね。
これは、とても大事なことなので、赤本で確かめておきたいと思います。『正信偈』の中だけでも仏の国のことがたくさん出てきます。まず国あり、ではないんです。人間が先なんですね。
例えば赤本の最初に出てきますね、四頁「覩(と)見(けん)諸仏(しょぶつ)浄土因(じょうどいん)」、ここでは仏の国をそれこそ

「浄土(じょうど)」

と出ています。七頁「成等覚證(じょうとうがくしょう)大涅槃(だいねはん)」ここには

「涅槃(ねはん)」

とあります。隣の行もそうですね、「必至滅度(ひっしめつど)」必ず至ると書いてあります、必至です、仏の世界へ至る、ここでは

「滅度(めつど)」

です。八頁「唯説(ゆいせ)弥陀(みだ)本願(ほんがん)海(かい)」の

「本願(ほんがん)海(かい)」

です。一六頁「證(しょう)歓喜地生(かんきじしょう)安楽(あんらく)」安楽に生ぜん、歓喜地を證して安楽に生ぜん。ここでは

「安楽(あんらく)」

です。一七頁「自然即時入(じねんそくじにゅう)必定(ひつじょう)」入というのは存在そのものを受け入れてくださるということが、入という言葉です。ここでは

「必定(ひつじょう)」

これも仏の世界です。十九頁「帰入(きにゅう)功徳(くどく)大寶(だいほう)海(かい)」帰入、また入という字がありますが、ここでは、

「功徳(くどく)大寶海(だいほうかい)」

です。二〇頁「得至(とくし)」至ると書いてあります、得(う)る

「蓮華蔵(れんげぞう)世界(せかい)」

です。二一頁「焚焼仙経帰楽邦(ぼんしょうせんぎょうきらくほう)」どこに帰るのかと言うと

「楽邦(らくほう)」

これも仏の邦(くに)です。邦(くに)と読みますね。これしているとある方が
「ご院(えん)さん、もうええわ」
と言われたことがありましたけど…、今日はお付き合いください。「もうええわ」と言うほど応機なんです、仏がそれほど人間に寄り添い応えてきたかということです。二二頁「報土(ほうど)因果(いんが)」の

「報土(ほうど)」

です、二三頁また必至と出てきますが、ここでは

「無量(むりょう)光明土(こうみょうど)」

です。二五頁「至安養界證妙果(しあんにょうかいしょうみょうか)」ここでは

「安養界(あんにょうかい)」

です。ほんとに
「もうええわ」
と言いそうですね。(笑)二六頁のここでは、

「大智海(だいちかい)」

です。ここも海という言葉がつきます。二七頁「即證(そくしょう)法性之(ほっしょうし)常楽(じょうらく)」とあり

「極楽(ごくらく)」

という言葉の方が一般的ですが、ここでは

「常楽(じょうらく)」

です。三一頁「速入(そくにゅう)寂静(じゃくじょう)無為楽(むいらく)」また入がありますが、ここでは

「寂静(じゃくじょう)無為楽(むいらく)」

です。
それに、『正信偈』以外でもですね、同じく親鸞聖人(しょうにん)の『和讃(わさん)』には

「仏国(ぶっこく)」

「願土(がんど)」

「大心海(だいしんかい)」

という言葉もあります。
また、『唯信鈔(ゆいしんしょう)文意(もんい)』には、そのことが展開されている文章(真宗聖典五五三頁〜)があり、そこに、仏は

いろもなし、かたちもましまさず。(真宗聖典五五四頁)

と親鸞聖人が書かれています。
だからこそ、いかなる形にも寄り添うのです。いかなる形にもなるということです。いろいろ面倒なことを申し上げたんですけど、天国があってここへ生まれて来いじゃなくって、一人の人間に寄り添ってくださるのが仏である。「いること」に仏がどこまでも応機してくださるのです。

無数(むしゅ)の阿弥陀ましまして
化仏(けぶつ)おのおのことごとく(真宗聖典四八八頁)

です。
3、おふくろ
先ほど、「本願海」「大智海」「大心海」など「海」という言葉がありましたけど、仏と同じく、お母さんもそうなんですね。海という字は母という字が入っています。母なる海といいます。
昔から日本人はお母さんのことを、「おふくろ」って言います。おふくろというのはどこまでも相手に寄り添う心なんです。ふくろというのは相手の形にどこまでも寄り添い、包む、これがふくろなんですね。トランクとは違うんです、トランクは自分の形を持っているんです。これにはめるのです。この形に従えなんです。でも、ふくろというのは違うんですね。相手の形をどこまでも優先し、相手の形に応じるのがふくろです。だから自分に対して、いつもその心で持って、包んでくれるお母さんのことをおふくろと呼んできたのです。だから、仏のことをそのまま親様と呼ぶ地方もあるわけです。やはり「応機」です。しかし、どうでしょうか私たちは、いつも
「私に合わせろ」
なんですよね。
今日のパンフレットに、大会の趣旨、同朋大会開催の言葉を書いてくださっています。私はこの文章にすごく感銘を受けました。
 
人間は、苦しみに悩むとき、だれかこの気持ちを分かってくださいと悲しんだり、だれも私の気持ちなんか分からないとぼやいたりしますが、反対に、他者の気持ちが分からないと涙を流すことがあるでしょうか

そうなんです、ぼやくんですよね。
「どうせ自分一人や。誰も分かってくれへん」
って、そんなふうに思うんです。トランクです。いつも私の形に合わせろ、ということで人と接しています。そのことに苦しみ悩むことはあっても、
「他者の気持ちが分からないと涙を流すこと」
など更々ないわけですよね。
4、竹中智秀先生の接し方
応機、人間が先、人間にどこまでも寄り添ってくださるのが仏、そういう教えに生きておられた先生に、やはり遇わせていただきました。例えば、竹中(たけなか)智(ち)秀(しゅう)先生なんかは、本当に一人を大事にしてくださる先生だったと思います。竹中先生は大阪の方(かた)で、難波別院でも、御堂仏青など、よくお世話になりました。先生は一昨年、お浄土にお帰りになられました。先生なんかは本当にこう一人に寄り添ってくださるんですね。久しぶりに会ってもね
「ああ君は、長浜に行った人でしたね。どうですかこの頃は…」
とちゃんと覚えていてくださいます。私の専修(せんしゅう)学院の友達なんかにも、
「福祉の方の仕事はどうですか」
と、丁寧にその人のことを見ておられる、まなざしを向けてくださっているんですね。何かすごく一人を大事にしてくださる先生でしたわ…。
5、教えを捨てて人間を取る
先ほどのホームページの住職記の続きを読ませていただきます。まどみちおさん、竹中智秀先生の次は宮城 豈頁(みやぎしずか)先生です。今日のテーマに沿うようなことを宮城先生が学生さんたちにお話されています。これは九州大谷短大で講義されたお話が掲載されている『他人さえもいとおしく』という本からの引用です。
 
1、教えを捨てて人間を取る

『教えを捨てて人間を取る』この言葉に出会ったのは、次の文章の中でです。

仏教というのは、どこまでも人間の事実から出発する。とくに親鸞という方は、何よりも人間の悩みとか弱さとか一人ひとりの人間の事実というものを、本当に深く見つめられた人でございます。どんなに立派な教えであっても、現実に迷ったり、落ち込んだり、悩んだりしている人間がはじき出されるような教えなら、そういう教えを捨てて人間を取る。そういう態度で歩み続けられたのが親鸞でこざいます。
『他人さえもいとおしく』宮城 豈頁(みやぎしずか)著

ここからは住職記になりますが、続けて読ませていただきますね。

2、民衆と生きる

確かに、親鸞聖人は当時の仏教界の教えの中心であった比叡山(ひえいざん)を捨てて、民衆と生きるほうを取られた人です。

3、私たちはどうか

そのような、親鸞聖人を『宗祖(しゅうそ)』としている私たちはどうでしょうか…。

4、人間を捨てて教えを取る

私の場合、皮肉なことに教えを聞く程、反対になってきています。つまり、教えというものの枠に、相手を、こうあってほしい…、こうあるべきだ…、こうでなければいけない…とはめようとし、遂(つい)には、こうでないお前のことはもう知らん…という形ではじき出していく。最後、教えというものが、ぽつんと私の中に残るだけです。それは、人間を捨てて教えを取る…です。

どうでしょう。こういうことってないですか、何かぽつんと教えだけ残るんです。一人、孤独になるのです。さっきの緑のパンフレットの言葉
「だれも私の気持ちなんか分からない」
です。これ案外、聞法すればする程です。聞法する程に教えというものをどんどん固めていくんです。聞けば聞くほど聞いてきた自負心でそれを確固たるものにしていきます。そして相手の言葉がいよいよ聞けなくなります。相手のことが許せなくなります。しかしそれは、私が勝手に作り上げたものさしであって、決して教えと呼べるようなものではありません。仏教ではないということです。続きを読みますね。

5、教えを捨ててとは

実は、親鸞聖人が捨てられた教えとは、今の私のような人を裁(さば)いていくような、また、ぽつんとそれだけが残るようなものであったと思います。最初の宮城先生の文章によると、これは「仏教」ではないようです。なぜなら、決して人間の事実から出発していないからです。

6、人間を取るとは

親鸞聖人は、一人ひとりを『御同朋(おんどうぼう)』『御同行(おんどうぎょう)』とお呼びになりました。それは、ただ横に手をつないで『御同朋』『御同行』になっていくことではなくて、仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)の中に『無有代者(むうだいしゃ)』とあるように、誰もが代わることの出来ない苦悩や悲しみを背負った、深く重い人生を生きておられるという眼で、一人ひとりを見つめていかれたからだと思います。表紙の詩(まどみちおさんの詩)もまた、そんなふうに人間を見る眼を、私に教えてくれているようです。こういう感覚が人間を取るということなのですよね。

7、受け止めたい言葉

人間を捨てて教えを取る…気がつけば、いつも、そんなふうになっている私の事実を照らし出すのが、本当の教えというものなのでしょうね。今、私がしっかりと受け止めていたい言葉を、同じ本の中で、宮城先生はこう言われています。

どうか、みなさん。一人の人間の重さを知る心をもって、いろんな人に出会っていただきたい。
6、無有代者
ここで「無有代者」とありますが、これは『仏説無量寿経』の中に出てくる言葉です。代わる者なしです。人生に代理人(だいりにん)はいないということですよね。このことを本夛惠(ほんださとし)先生が教えてくださいました。お酒の好きな先生でしたわ。私も人のこと言えんのですけど、先生とお酒を飲んでいる時にこんなふうに言われたんです。
「澤面(さわも)君、トイレに行きたくなってきたよ」
って。本夛先生は足が不自由でね、先生から
「澤面君、トイレに行きたくなってきたよ」
と言われるのですから、
「分かりました、それじゃ肩貸しますわ、トイレ行きましょう」
って、普通こういうやり取りですよね。そしたら先生は
「違うよ」
と言われるんですよ。
「違うよ、僕の代わりにトイレに行ってきてくれ」
ってこう言われるんです。そんなアホなって…。
「いや先生、いくら先生のお願いでもそれは無理ですわ」
お酒の席ですけど、こんなことがありました。
そしたらね、本夛先生の癖(くせ)なんですわ、机をポンと叩いてね
「無有代者ということは、そういうことだよ」
と言われました。
「オシッコひとつ代われんのだよ」
こんなふうに言われました。そうなんですね。トイレひとつ代れないんです。無有代者というのは、
「オシッコひとつ代れんのだよ」
です。その人が受けているということです。誰もが、その人にしかわからないことを背負って生きているのです。先ほどのまどみちおさんの言葉

ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

のです。その人、一人だけがそこに立っているわけです。その人が、毎日の生活の事実を全部引き受けて生きておられるのです。お釋迦さんの言葉
「人生は苦なり」
を誰もが生きておられるのです。一人の重さです。このことなんですね。無有代者ということは。
7、数を信仰している
私たちの在り方を、少し問うてみたいと思うんです。だいたい考えてみますと、私たちが拠り所にしているのは、「数」なんですよね。この「数」を信頼していませんか、信頼どころか、もう崇拝(すうはい)と言ってもいいぐらいです。この「数」というのは恐ろしいほど説得力があるんですね、例えば
「みんながしている」
「みんながそうだ」
って、これ多数の論理です。数の力です。現代人はみんなこれに弱いですよね。うちの子どもでも言いますわ、何か欲しい時に
「みんな持ってる」
と言うんです。私もすごくこれに弱いです。
今、日本中がそれで動いています。全部「数」ですよね、テレビは視聴率です。子どもは偏差値です。会社は売り上げです。サラリーマンは年収です。全部「数」で評価します。今、あなたは何を信仰していますかと聞かれれば
「はい、浄土真宗」
じゃなく、
「はい、数です」
というべきかも知れません。それほど「数」に弱い。でもね、「数」にすることによって一番見えなくなるものがあるんです。それは一人です。一人のいのちです。
「数」といえば、よく聞いていただくお話があるんですが、私が難波別院の法務部(ほうむぶ)に勤め始めた時のことです。法務部には、平等(たいら)明信(みょうしん)という厳しい先生がおられまして、その先生から教えられたことなんです。
難波別院では土曜、日曜になると、納骨(のうこつ)が非常に多いのです、ご遺骨を持ってお参りに来られます。ご遺骨を須(しゅ)弥壇(みだん)の下に納(おさ)めるわけです。早い時は朝七時半ぐらいから来られ、ずらっと並ばれるのです。
その日も八時過ぎには、三家族が来られていました。平等先生が
「今、どれぐらい来ておられるんや」
と聞かれました。それで私は
「はい、すでに三(みっ)つ、来てます」
と答えました。
ご遺骨を
「三つ」
と言うたんです、えらい怒られましてね
「もう一遍(いっぺん)言ってみろ」
と、言われましてね。私は何故怒られているのかわからないもんですから、あれっ、聞こえへんかったのかなあと思って、指で「三」とまでして
「三つです」
とまた言ったものですから、すごい大声で
「なんという言い方しとるのやっ!」
「三体(さんたい)やろ!」
と怒鳴(どな)られました。そら、怒られますよね。勤め始めたばかりとはいえ…。いくら若いとはいえ…ね。
数で三つと言ってしまうと、お一人、お一人が見えるはずもありません。
この「体(たい)」ということ、「体(からだ)」。それは、お一人、お一人の人生がそこにあったということなんですね。一人ひとりの存在が見えていない「三つ」ではなく、一人ひとりの存在を見る「三体」なのです。山ほどある怒られたことの中で、このことは、今もしっかりと、心に残っています。
あの、聞きたいのですけど、ところで、皆様は大丈夫ですか?
「今年は、法事二つや」
そんな言い方してないでしょうか?
「ご院さん、今年、お爺さんとお婆さんの法事が二つあるんや。午前と午後で頼むわ」
って。こんな言い方です。どうでしょうか?
この言い方は、私とまったく同じですよ。法事の時の表百にあります
「亡きひとを偲(しの)びつつ如来のみおしえに遇いたてまつる」
亡きひとを偲びつつですから、二つではなく、二人です。こんな言葉も聞いたことがありますよ。
「ご院さん、来年、再来年と、法事が三つ続くんや、今年一つにまとめてもらえんか」
僧侶(そうりょ)の中にも
「今、中陰(ちゅういん)、二つかかえてる」
なんて言い方をされる人がよくおられますし。
どうでしょうか。あらためて、相手に寄り添うおふくろではなく、トランクの如く生きる者、数あるいは数に拠っての評価にとらわれ、「いること」のすばらしさを見失っている者、そうした私たちが、まどみちおさんの詩から、「応機」という仏の在り方から、「おふくろ」という母の心から、「無有代者」という人間の事実から、厳しく問われているように思います。

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