滋賀/長浜 真宗大谷派浄願寺

滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-


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●テーマ 「王様」(71座) 

2006(平成18)年6月1日

表紙
一番好きなもの
           関本理恵(18歳)

私は高速道路が好きです
私はスモッグで汚れた風が好きです 
私は魚の死んでいる海が好きです
私はごみでいっぱいの町が好きです
殺人 詐欺 自動車事放が好き
そして 何より好きなのは
多数の人が
涙を流す
血を流す
戦争が大好きです
飢えと
寒さの中で
戦って死んでいく姿を見ると
背中がぞくぞくするほど
楽しくなります
毎日毎日
大人が
子供が
生まれたばかりの赤ん坊が
次から次へと
死んでいるかと思うと
心がゆったりします  
歴史を歴史と感じ
過去を過去として思う
舞感情な
時の流れに 自分自身に
たまらなく喜びを感じます


こんな私を助けて下さい
誰か助けて下さい
たった一粒でもいいのです 
こんな私に
涙というものを与えて下さい
たった一瞬でいいのです
こんな私に
尊さというものを与えて下さい
私の名前は
人間といいます
 
   『いのち』真宗大谷派児童教化連盟より
住職記
▼釋迦族の王子として生まれた釋尊は、何不自由ない暮らしであったにもかかわらず出家されました。また、『仏説無量寿経』の中にも、阿弥陀仏になる前の法蔵菩薩のことが次のように説かれています。

国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。

それらはいずれも、「王様」をすてて道を求められた姿です。
▼それにくらべて、何もかも思い通りにしたいと生きる私たちが日々、求めているのは他でもない、それらをほぼ叶えることの出来る「王様」ではないでしょうか。そうである限り、仏と全く反対方向を進んでいると言わねばなりませんが、実は、仏教はこのことから、人間は、決して「王様」を目指して生きているのではないということを教えています。
▼以前、日本を訪れたマザーテレサがこのように言われました。 

私はインドの飢餓と病に苦しむ人たちの救済援助を求めて、世界各国を回って日本を訪れましたが、日本ほど物質的にも環境的にも、あらゆる面でこれほど恵まれた豊かな国はありませんでした。しかし、その日本に住む人たちは、私が訪れたどの国の民族よりも、その表情に貧しさと暗さを感じました。

▼戦後、日本は物質的にも環境的にも、あらゆる面で今までにない、それこそ「王様」のような生活を手に入れたにもかかわらず、その表情が貧しく、暗くなっていくのは、まさに仏教の如く、これが私たち人間が真に願い求めている生き方ではないことを明示しています。
▼このような言葉があります。

身は念仏している
心は妄念妄想している。
           米澤英雄

▼「王様」を目指す心に馳せ使われている私たちに対して、人間は、決して「王様」を目指して生きているのではないと、身が叫んでいるのだと思います。不健康だから、表情が貧しく、暗くなるのではなく、むしろ、人間として健康だから、そうなるのでしょう。
▼今、表紙の詩を頂きたいと思います。私たち一人ひとりが「王様」を目指す心で、限りなく作り出す現実社会を「好き」という言葉で批判し、そしてそのことを全身をあげて身が叫んでいる、「人間」というものを見つめておられます…。
編集後記
▼今日、流行の宗教の多くは、あなたの望みを叶えてあげますよと、要は「王様」にしてあげますよと囁くものばかりではないでしょうか。そうである限り、それは仏教ではありません。
▼名誉も地位も権力も手に入れ、限りなく「王様」に登りつめた豊臣秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」です。「王様」に登りつめても、夢のまた夢です。将軍秀吉に学ぶべきことは、この一点ではないでしょうか。
▼恥ずかしながら、大学時代の私は、パチンコと麻雀に明け暮れ、随分結構な時を過ごす「王様」でした…。社会に出るまでと自分に言い聞かせながら楽しんでいたわけですが、でも、どこかで空しいというか、何となく、身体がだるかったことを今も覚えています。やはり、身が叫んでいたのですね。(笑)

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