滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-
●テーマ 歪んだものの見方(73座)
2006(平成18)年10月1日
表紙
↑『ブッタとシッタカブッタ1』小泉吉宏著より
住職記
▼小泉吉宏さんの描く、仏教の教えを通した鋭いマンガは浄願寺通信でも、何度も紹介させて頂きましたが、今号の表紙のマンガに、あらためて考えさせられています。
▼これを読むと、こんな馬なんかいるわけないと笑いとばしてしまいそうですが、実はこれが私たちの歪んだものの見方のようです。
▼このことについて、仏教はこんなふうにも教えています。天人はまばたきをしないが、人間はまばたきをする。その限り、絶対に見落としている。
▼考えてみると、人間はまばたきどころか、一日の三分の一ぐらいは眠っています。どんなに頑張って、目を見開いてみても、二十四時間、相手のことを見つめることは出来ません。やはり「以上の経験から」の歪んだものの見方です。
▼以前、あるご門徒さんが話された、母親の満中陰法要の挨拶での言葉が思い出されます。
「母親が亡くなり、お葬式から四十九日の間、多くの人がお参りに来てくださいました。その人たちの顔ぶれや、その人たちの言葉を聞いているうちに、私の知らない母親の一面、母親の世界があったんだなあ…ということをつくづく思い知らされました。生前中、私は、私の知っている母親としか出会っていなかったのかもしれません…。」
▼また、「仏説無量寿経』の中に「無有代者」という言葉があります。それは、代わることの出来ない、その人にしかわからない人生を誰もが生きているのであり、決して、外側から見てわかるような人生などひとつもないということを教えています。
▼私たちは、そんな厳粛な人生を生きる一人ひとりに対して、いつも外側から、マンガの中の「以上の経験から」をつなぎ合わせて、あの人はこう、この人はこうと、「これが馬だ」の歪んだものの見方で、わかったことにしているのだと思います。
▼この見方を絶対として生きる限り、生涯、誰とも出会えるはずもなく、孤独になるのは当然のことです。
▼どうでしょうか、もしも、私たちが人との出会いを切に願求するのなら、常に、歪んだものの見方である、この事実に立ち帰ることが、最も大切なことだと思います。
▼そして、その時にのみ、わかったことにしないで、今一度、相手のことを見つめ直すという、そんな出会いが始まるように思います。
編集後記
▼今日、宗教に対して、それを信仰すると、何か、人には見えないものが「見えるようになる」。そんなイメージを抱いている人が結構いらっしゃるのではないでしょうか。だから、テレビで、細木和子氏が「私には、あなたの未来が見えるわよ」等と、まことしやかに言ってます。そして、みんなを惑わすのです。
▼宗教、特に仏教においては、決して「見えるようになる」のではなく「見えていない」の自覚を頂くのだと思います。
▼「見えるようになる」というのは、あの人は見えて、この人は見えないという、個々別々の話であり、怪しいもんです…。
▼「見えていない」というは、あの人も、この人も誰もが等しくうなずけるのであり、これほど確かな世界はありません。
-浄願寺 -
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