滋賀/長浜 真宗大谷派浄願寺

滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-


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●テーマ みんなになるな ひとりになれ(132座)

2015(平成27)年3月1日

表紙
↑ナムナム大集会8
2015年2月10日
於ひと・まち交流館京都
左から
玉光順正さん(大谷派僧侶)
中山千夏さん(作家)
下地真樹さん(阪南大学教員)
「みんなになるな ひとりになれ」
 
 親鸞が流罪になってから808年の時が経ちました。なぜ親鸞は流罪に遭わなければならなかったのでしょう。それは、親鸞がナムアミダブツの教えに出遇うことを通して“ひとり”として生きようとしたからではないでしょうか。だから素直に言うことを聞く“みんな”になれと、時の権力者に弾圧されたのではないでしょうか。そのことを人々は法難と呼びました。そしてまた今、だんだん“ひとり”になりにくくなっているこの日本の社会ではないでしょうか。国は・・・いいえ、政府は、社会は私たちに“みんな”になれと求めてきているように思えてなりません。みんなになるとはどういうことでしょう。それは自分でものを考えなくなることだと思います。日々メディアからあふれ出る情報にひたり、自分でものを考えないで、他の誰かに決めてもらえば、何かあってもその誰かのせいにできます。「そういう時代だった」「首相がそう決めた」「世論もそうだった」と。政府は、社会は今、私たちにそんな“みんな”を押し付けてきているように思えてなりません。そして、自分にとって何が本当に正しいのか、何がおかしいのか、自分でものを考え、行動し、そのことを自分で背負っていくそんな“ひとり”が誕生していくことをうとみ、排除しようとしてきます。“ひとり”になるということは真摯に問い続けるということだと思います。自らの底からわきあがる問いと向き合い続けることだと思います。
「ナムナム大集会8趣旨文」より
住職記
■以前から玉光順正さんが言われていた

 みんなになるな ひとりになれ

という言葉が気になっていたのですが、今回のナムナム大集会(表紙参照)に参加し、私にはあらためて高木顕明師のことが思い起こされました。

■高木顕明師(1864〜1914)は愛知県のご門徒の家に生まれ、縁あって得度し、和歌山県新宮市浄泉寺の住職となりました。そこで被差別部落に住むご門徒と出会い、差別を受ける人々と同苦、同呻し、差別問題に取り組んだ大谷派教団の部落解放の先駆者です。師は、日露戦争の時、戦死者を祀る忠魂碑建立、敵国降伏の戦勝祈祷を行う各宗寺院の中で、

「弥陀一仏の外私には礼拝すべきものは無い。記念碑を建てゝ其の金文字にお経を読むで何になるか」

と叫び、そのことによって国賊視されました。また師は、唯一の著作の中には

「極楽世界には他方之国土を侵害したと云う事も聞かねば、義の為二大戦争を起したと云ふ事も一切聞れた事はない。依て余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る」

という言葉や

「諸君よ願くは我等と共に此の南無阿弥陀仏を唱え給ひ。今且らく戦勝を弄び万歳を叫ぶ事を止めよ。何となれば此の南無阿弥陀佛は平等に救済し給ふ聲なればなり」
とあり、まさに念仏者として全身で非戦を唱えた人です。

■ところが、大谷派教団は国が推し進める戦争に協力したのです。故に国による思想弾圧事件である「大逆事件」に連座させられた師を死刑判決と同時に擯斥(永久追放)に処しました。全く無実である師は孤立無援の中、獄中で自死されたのです。大谷派教団が師への処分の誤りを認め、謝罪したのは遅きに失した1996年のことです。

■師の生涯と趣旨文(表紙参照)の言葉を「 」に入れて考えてみたいと思います。

■親鸞聖人に出遇い、真宗に生きられた師もまた、「素直に言うことを聞く“みんな”になれと」の権力者によって弾圧されたのです。それは、「ナムアミダブツの教えに出遇うことを通して“ひとり”として生きようとしたからではないでしょうか」と、私もそのように思います。さらには各宗寺院からは国賊視され、大谷派教団からは擯斥(永久追放)されたわけです。つまり戦勝祈祷を行う各宗寺院、そして国が推し進める戦争に協力した大谷派教団も寄って集って「“みんな”」になったのです。いつの時代も真実を語り、真実に生きる人が「“みんな”」から「法難」を受けるのです。そして事実、「“ひとり”」の尊いいのちが奪われました。これは大谷派教団の過ちであり、私たちが背負うべき歴史です。決して忘れてはならないことです。

■「みんなになるな ひとりになれ」……、日々安穏として「“みんな”」として生きる者が親鸞聖人や高木顕明師を今もなお「法難」し続けているのです。今、「自分にとって何が本当に正しいのか、何がおかしいのか、自分でものを考え、行動し、そのことを自分で背負っていくそんな“ひとり”」として生きる、そのことが切に願われています。師を拝み、師の死を決して無駄にしない生き方が「“ひとり”」「“ひとり”」に課せられています。
編集添記
▼『歎異抄』の中に「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞聖人の言葉にもあるように縁次第で、誰もが“みんな”になるのです。ただそのことを深く心に刻み、課題としていきたいと思うばかりです。

▼さらに言えば、そのことを課題としている者同士がその歩みによって、またしても“みんな”になってしまうことがあるのでしょう。「やっかいやね…」と和田稠先生の声が聞こえてくるようです。(苦笑)

▼3月11日、東日本大震災から4年が経ちます。今もなお苦悩を強いられている人々の悲しい現実があります。そのことを忘れて私たちは日々安穏と“みんな”になっていないでしょうか。

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