滋賀/長浜 真宗大谷派浄願寺

滋賀県長浜市のお寺
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●テーマ いつも誰が一緒にいるのか(170座)

2018(平成30)年5月1日

表紙
こと差別に関しては、それらの元を紐解いていくと、釈迦の時代にまで戻っていく。経典に載せてインドの差別をばらまいた歴史を、ほんとうにもう終わりにしなければならない。まず、そこをはっきりさせたうえで、経典の記述をどうするのかの議論をすべきだと思う。本稿がそのたたき台になればよい。さしずめ『現代の聖典』の訂正は緊急の課題である。
女たちの「謀叛」  仏典に仕込まれたインドの差別 落合誓子著

※む‐ほん【謀反/謀叛】時の為政者に反逆すること。国家・朝廷・君主にそむいて兵を挙げること。『デジタル大辞泉』(小学館)

今回、貴重な一冊の本から万分の一を引用させていただきました。筆者があとがきに書かれている「女の目で経典を読んでくださる本格的な方々が育ってほしいと」に感動しました。尚、『是旃陀羅』「毘陀論経」にも存分に触れてあります。ぜひ、おすすめです。住職
住職記
差別心がそこまで根深い

丁度一年前、『旃陀羅』のことに触れましたが、引き続き書かせて頂きます。『仏説観無量寿経』の中で、母である韋提希を殺そうとする阿闍世に対して、そのようなことをするのは『旃陀羅』であると、大臣は剣を収めさせるのです。それは阿闍世が倫理、道徳によって踏み止まったのではなく、『旃陀羅』に対する差別心がそこまで根深いからなのです。

心に痛みを感じる

『旃陀羅』とは古来インドの最下層の被差別民衆を指し、経典の中にこのような差別用語があり、これによって今も尚、差別に苦悩する人々がおられます。そして特に忘れてはならないのが、小森龍邦さんからの次の問題提起です。『観無量寿経』の『是旃陀羅』の教説部分は、被差別者にとってはやりきないほど、心に痛みを感じるところである。
『親鸞思想に魅せられて』79頁 小森龍邦著  

『仏説箭喩(せんゆ)経』

『仏説箭喩経』の中に、毒矢に打たれた人のことが説かれています。何よりも一刻も早く毒矢を抜かなければ死に至ることは言うまでもありません。ところがこの毒矢を作ったのは誰か?、どんな恨みがあったのか?、成分は何か?、その他色々考えている内に毒矢の毒が全身に回り、ついにその人が亡くなってしまうのです。

理論や解釈ばかり

このような教えを聞くと、ほとんどの方が明らかにわかるのです。大切なことは、毒矢を抜くこと以外に何もありません。ところがこの『是旃陀羅』に対しては、多くの者がこのことを怠り、理論や解釈ばかりを繰り返しているのではないでしょうか。「心に痛みを感じる」と言われる小森龍邦さんの胸に刺さる毒矢を抜くことが何よりも先決なのです。

「乃至」という言葉について

先日、ある住職が指摘されたことです。それは『仏説観無量寿経』の中の上品上生者 (じょうぼんじょうしょうしゃ)から下品下生者(げぼんげしょうしゃ)まで九品に分け られています。そして「昭和法要式」(昭和 三十一年設定)により、上品上生者、中品 下生者、下品下生者の三品に分け、それぞ れ「乃至」という言葉で省略され、抜粋されているのです。これは一つの例であり『大経』 『観経』に何箇所もあり、現代、多くがこの「昭和法要式」で勤まっているのです。
 
チームを形成すること

つまり『是旃陀羅』も、乃至という言葉でまず表現し、控えるのです。その上で、何よりも課題と出来るチームを形成することが教えられました。

常に出発点に立つ

『仏説観無量寿経』の頃からすでにあった差別心の根深さ、小森龍邦さんからの問題提起…、私たちにとって何をせねばならないのか、その一点が強く問われているのです。そこでもうこれ以上、毒矢の毒が全身に回るまで放っておくには行きません。今、法事等、儀式の場で、『是旃陀羅』の音声、響きをまず消し、場所を移動するべきです。そしてその上で、『仏説観無量寿経』から『是旃陀羅』を削除せずに、常に出発点に立つことが願われているのです。

『仏説観無量寿経』の原文

最後にこのことだけ加え、終わらせて頂きます。もともと「毘陀論経」から『これ栴陀羅なり。』と叫び、さらに「阿闍世、」に対し「母を害することなかれ」から「すなわち剣を捨てて、止りて母を害せず。」と踏み止めさせたその流れ自体が『仏説観無量寿経』の次の原文なのです。
※(びだろんぎょう)「『毘陀論経』=バラモン教典=によると」と前置きしているように、この部分は仏陀の教えに基づく発言ではないことを明示する必要があるーーとの見解を示した。(2016年4月29日付 中外日報)

および耆婆と、王のために、礼を作して白して言さく、「大王、臣聞く、『毘陀論経』に説かく、劫初よりこのかた、もろもろの悪王ありて、国位を貪るがゆえに、その父を殺害せること一万八千なり。未だむかしにも聞かず、無道に母を害することあるをば。王いまこの殺逆の事をなさば、刹利種を汚してん。臣聞くに忍びず。これ栴陀羅なり。宜しく此に住すべからず。」時に二の大臣、この語を説き竟りて、手をもって剣を按えて、却行して退く。時に阿闍世、驚怖し惶懼して、耆婆に告げて言わく、「汝、我がためにせざらんや」と。耆婆、白して言さく、「大王、慎みて母を害することなかれ」と。王この語を聞きて、懺悔して救けんことを求む。すなわち剣を捨てて、止りて母を害せず。内官に勅語し、深宮に閉置して、また出ださしめず。
(真宗聖典90頁〜91頁) 
※経典では「栴」と書く。

いつも誰が一緒にいるのか

やはり私個人の思いですが、「毘陀論経」からここまでの『仏説』を展開するのは意味がなく「乃至」で良いと思います。それより話し合いの場に、いつも誰が一緒にいるのか、そのことが一番大切なのです。
編集後記
▼4月8日の夕方から、身体が不調になり即入院になりました。ご心配をおかけ致しましたが20日に退院となりました。最初のことを思うと、たまたまこんなに回復し、皆々さまには本当にありがとうございました。頂いた身体、今後くれぐれも大切にさせて頂きます。尚、今回の浄願寺通信は不思議のご縁で病室で書かせて頂きました。合掌

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