滋賀/長浜 真宗大谷派浄願寺

滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-


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●テーマ みんなに願いがかけられている(245座)

2024(令和6)年8月1日

表紙
人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり
清沢満之『御進講覚書』(『清沢満之全集』より

■他力本願の言葉はもっぱら他人の力をあてにする時によく使われますが、これは大変な誤解です。親鸞聖人の他力本願は「棚からぼたもち」ではありません。
『歎異抄』(真宗聖典626頁・二版767頁)の中に、

念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき

とあります。ここで大切なことは「おこる」のであって、決して「おこす」のではないと教えられました。「おこす」なら「がんばって、おこしましょう」という自力の話です。また、「おこす」なら、あの人はおこしているけど、この人はおこしていないという善悪になり、競争や闘争の話になります。
■大切な一点は、「おこす」のではなく「おこる」のです。清沢満之氏の言葉「至盛の要求」が「人心の至奥より出づる」のです。他力より誰の心の「至奥」にも確かに「おこる」本当の願い…それが他力本願です。                                   (住職)
みんなに願いがかけられている 浄願寺 澤面宣了
 大阪教区のこの度のテーマ、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう―みんなに願いがかけられている―」から、私は今でも心に残る次の文章を思い出しました。それは以前長浜教区に於いて開催された「第43回近畿連区同朋の会推進研修会」の趣旨文の中にありました。
 
 今自分が営んでいる生活ほど、大切なものはありません。ですから私たちの聴聞の在り方も、その自分の大事な生活を守るため、役に立って、日常生活のプラスになるような仏法が聞きたいし、またそういう聞き方しかしていません。しかしそれは常に「感謝の宗教」を求めていることになりませんか。現実を問い直すことなく、全面的に肯定し感謝している。しかも、そのような自分を一向に問題にすることのない姿がそこにあります。

 これを読むと一瞬疑問を感じられる人もあると思います。誠に差し出がましいのですが「感謝の宗教」を「お守りの宗教」と置き換えても良いのかもしれません。その上でそこには私たちの仏法聴聞の在り方から「感謝の宗教」を求める姿を厳しく指摘されています。確かに浄土三部経をはじめ、浄土真宗のお聖教の中に「感謝」という言葉はどこにもありません。特に大切な親鸞聖人の恩徳讃も、「報ずべし」「謝すべし」であり「感謝」ではなく「報謝」です。しかしそれは「感謝の宗教」ではダメだとただ否定しているのではなく、今一度そのことへの吟味を提起されているように思います。そもそも一般的に感謝こそが宗教だと思い込んでいるのかもしれませんが、都合よく思い通りになった時だけ感謝するのであって、そうでなければ神も仏もあるものかと途端に手のひらを返すのが私たちの正体です。

朝焼小焼だ 大漁だ 
大羽鰯の大漁だ。
浜は祭りのようだけど 
海のなかでは何万の 
鰯のとむらいするだろう。
『大漁』金子みすゞ
       
 これは今も読み継がれる『大漁』という詩です。妙なことを言いますが私たちなら次のように終わるのかも知れません。「朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰯の大漁だ。浜は祭りのようだ。」で切り、ありがとうと感謝するのです。大漁を喜び感謝して終わるのが私たちの日ごろの心です。まさに開催趣旨文の如く「現実を問い直すことなく、全面的に肯定し感謝している。しかも、そのような自分を一向に問題にすることのない姿」です。しかし『大漁』の詩はそうではなく「浜は祭りのようだけど…」からの世界が開かれています。そこにあるのは痛みです。

 そしてここからが大切だと思うのですが、不思議なことに私たちは「浜は祭りのようだけど…」からの世界に共鳴するものを持っているのです。だからこそ人の心の中からこのような詩が生まれ、またお互いに響き合うものがあり、今日までずっと人の世にこの詩が伝わって来ているのでしょう。宗教は感謝で終わるのではなく、ここを頂くのではないでしょうか。いつも共に唱和する三帰依文の中に「まさに願わくは衆生とともに」とあり、衆生とは勿論、鰯も同じ生きとし生けるすべてのいのちです。これはすべてのいのちと共に生きたいという根本の願いであり、親鸞聖人は「本願」と頷かれました。「衆生とともに」というすべての人の心の底から確かにつき上げてくる本願が「海のなかでは何万の鰯のとむらいするだろう」という痛みとなってはたらくのです。人と生まれたことの意味はこの本願を頂くことのほかにないと思います。

 相変わらず「浜は祭り」のことしか願うことの出来ない私たちですが、阿弥陀仏からどこまでも「みんなに願いがかけられている」その本願の中に人は在るのです。
あとがき
▲2024年6月号に八尾別院大信寺発行の機関紙『やおごぼう』(※上画像)に住職の文章が掲載されました。
▲合わせてこの序文のような形で、少し表紙に書かせて頂きました。今号の通信でご報告させて頂きます。
夏中さんが勤まりました。
▲露店

夏中(げちゅう)は釋尊が在世中、僧侶が一定期間、ひとつに集まって修行する夏安居(げあんご)に由来するといわれています。しかしそれ以上に私は「夏中さん」と愛着を込めて呼び、賑々しい露店が並ぶ琵琶湖の夏の風物詩にまでなった、ここ湖北の御仏事であると感じています。それこそ、民衆の中で生きられた蓮如さんを慕い、遺言ともいわれる「夏の御文」を頂き直そうとされた人々のお講であると頂戴しています。(住職)
▲長浜別院本堂

7月2日〜5日、長浜別院に於いて夏中さんが勤まりました。
ここに法話の聞き取りメモを掲載させて頂きます。(文責 澤面)

晨朝・暁天講座(法話1席) (共学研修院生の方々)
▼2日 藤森了英さんよりひと言(長浜第23組真西寺)
●親鸞聖人の教えを相続してこられた人々から、この私に届けられたお念仏。
●仏の「摂取」の「摂」は逃げる私たちを追いかけおさめとる、「取」は迎えとる。
●相続の世界を生きる私たち。それがいまここに私がいるということ。

▼3日 達伊優香さんよりひと言(長浜第18組傳正寺)
●阿弥陀仏の誓願は、苦しむものがいる限り私は仏にならないという誓いと願い。
●反応するものを衆生という。
●どこまでも恩に報いて生きよう。

▼4日 古松了真さんよりひと言(長浜第23組頓念寺)
●当たり前は当たり前ではない。
●ありがとう、ごめんなさいが南無阿弥陀仏だと思っています。
●安心して問うことが出来る世界がある。

▼5日 三山岳さんよりひと言(長浜第13組真勝寺)
●暁は単に朝方という時間を示すだけでなく、暗闇から徐々に光が満ち溢れてくるという感動。
●実際は「渡る世間に鬼はなし」なのに、私たちは「渡る世間は鬼ばかり」がしっくりくる。
●「出遇い」とは「遇とは偶にかさなって、偶然に、期せずして不思議にあうこと」。

勤行・夏の御文(法話2席)
▼2日 興法慶実さんよりひと言 (敦賀組隆法寺)
●仏法は心で聞くよりも身で聞くのです。
●聞法は響き、におい、雰囲気があるライブが大事です。
●他力は名詞ではなく動詞である。

▼3日 森清隆さんよりひと言(長浜第23組本光寺)
●人が人を教化することではない。
●人と生まれて、能登の大地に親鸞と生きん。
●念仏が人と人とを繋ぐ。

▼4日 一色孝さんよりひと言(長浜第13組光西寺)
●地元ではお葬式のことを「お悲しみ」と言われる門徒さんがおられました。
●人生に頭が下がる人生でありたい。
●湖北の言葉である「赤ちゃんをもろた」は「この人生をもろた…」です。

▼5日 比叡谷紗誓さんよりひと言(近江第26組徳乘寺)
●社会で耳にする「女のくせに」や「女々しい」等は女性に対して否定的な言葉でしかない。
●女性蔑視、しかしそれが私の中にもすり込まれている。
●仏の視点、仏の目線で生きることが大事であると思う。
新 京都教区発足
▼ご承知の通り7月1日から、旧長浜教区と旧京都教区は9地区、43ヵ組、1068ヵ寺の新京都教区となりました。また別院、崇敬区域は次の通りです。(※下画像参照)
画像をクリックすると拡大されます。


▼そして7月8日、長浜教化センター開所式が開催され、浄願寺からは住職と門徒さん(1人)が出席しました。旧長浜教務所は長浜教務支所という名前になります。(※上画像)
▼長浜別院・五村別院の公式ホームページには次のように書かれています。

2024年7月1日から長浜教区と京都教区は、教区改編により、京都教区になり、これまでの長浜の聞法の伝統を継承するため、長浜別院に長浜教化センターが設立されました。本日の教化センター開所式では聞法の歩みの出発点を確認いたしました。

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