悩むというのは
自覚である
悩まされるというのは
無自覚である(曽我量深)
悩むというのはもっとも人間らしい尊い姿である。しかし、現実はほとんど悩まされているのではないだろうか。悩まされている時は、愚痴や悪口や人を責める世界しかない。原因を外に見ているからである。そうである限り、永劫に立ち上がっていくことはできない。
「新しい下駄をはくと、下駄の表面がすぐ黒く汚れてしまう。それを布巾でふけば、すぐ汚れがとれてきれいになります。でも、はいているうちにまたすぐ汚れてしまう。なぜ下駄の表面が汚れるかというと、自分の足の裏が黒く汚れているからです。どれだけ下駄をふいても、まっ黒な足の裏をしていれば、すぐ汚れてしまう」。曽我量深先生のお言葉である。こんなことは、理知では分かりきったことである。しかし、人間というものは、下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れているからだ、ということに容易に気づかない存在である。愚かとも無明とも言われるゆえんであろう。それに気づかない間は結局、下駄をふきつづける生活でしかない。私たちの日常は、下駄をふきつづけている生活ではないだろうか。「自分の足の汚れに気がついた人を目覚めた人、下駄の汚れの原因が自分の足にあると気づかない人を不平不満の人」と、曽我先生は言葉を継がれる。
「ああ、下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れていたからだなあ」と気づかされたときに、いのちに体温が通う。その時に、悩まされる世界から悩む世界に転ずるのであろう。悩みがなくなるのでも、解決するのでもない。真に主体的に悩んでいける自分が誕生する。つまり、限りなく問うべき課題が生まれてくるということだ。信仰とはそういう歩みをたまわることである。だが、それは、人間の知恵や眼からは毛頭見つかってこない。そこに教えを聞くということの一大事がある。満ち足りた現実社会の中で、人間が忘れている一大事である。
『生命の見える時 一期一会』松本梶丸著より
▼住職から最後のひと言
悩むということが最も人間的であり、正気に戻る機会(チャンス)なのだと思います。