死ぬということがなければ
生きるという意味もない
金子大榮
確実に死の近づいたこどを知ったとき、我われは何を考えるだろう。何をすることができるだろう。はたして、何かを考え、何かを成そうという意欲が湧くであろうか。「あとー週間のいのちだ」ということが自分に解ったとき、私は今やりつつある仕事を着実にしていられるだろうか。自信はない。ということは、今やるべきこと、今しかやることのできない大切なことを、ないがしろにしていることだ。死は必然。死に忘れた人は一人もない。生は偶然。いつ死んでも不思議でない私が、今生きている。
一日の空過は やがて
一生の空過となる
金子大榮
人生は一回限りのものであって、ニ度とくり返すことはできない。五十年・六十年の生涯のなかで、今日という日は一回しかない。一日を大切にする人は、一年間を大切にする人である。一年を大切にする人の一生涯は、空過(むなしく過ごすこと)しない。一日を大切に生きるとは、必ずしも、あれやこれやを精力的にこなしていくことではない。今日しなくてはならない唯一無ニのことを見極め、そのことを行なって、後悔がなく、充実感が味わわれることである。怠惰は人の骨を抜く。多忙は人の心を失う。空過は人の尊い生命を限りなく奪いつづける。それは大切な「時」を殺すことである。
『いのちのことば』本夛惠著より
▼住職から最後のひと言
先日、この文章を書かれた本夛惠先生が亡くなられました(還浄)
今、先生の死から、先生の声に耳を澄ませたい…。
▼浄願寺通信(58座)追記より
合掌
先日一月二十一日、恩師の本夛恵先生が亡くなられました(還浄)。
本夛先生がよく言われていた「人生は出遇いだよ」という言葉をかみしめての、三月号の浄願寺メモと今号の浄願寺通信です…。
先生、本当にありがとうございました。そして、御苦労さまでした。先生が求められた道を、出来る限り私も歩んでいきたい…と思います。
再拝