考えてみると、
「よう、観とけ」
という声は俊子さんのお母さんだけに限らず、すべての亡き人からの声なのではないでしょうか。そのことをわが町のお葬式の際につくづく思います。
相撲(すまい)町のお葬儀式は、まず最初に当家において棺前(かんぜん)勤行(ごんぎょう)が勤まります。その後、玄関からお棺(ひつぎ)が出る時に、住職とお棺の間に三具足といわれる鶴亀(つるかめ)、香炉(こうろう)、花が並び、路念仏を称えます。そして、お棺を身内の人が浄願寺の境内まで担いで、そこで葬場(そうじょう)勤行という、昔ながらの形です。
その三具足といわれる鶴亀、香炉、花なのですが、これらの仏具は必ず子どもが持つことになっています。湖北はだいたいそうらしいですね。亡き人との間柄で言うと孫が持つことになっています。最近は、長生きの方が多いので、曾孫の場合もありますが、要は子どもっていうか、幼き人が持つのですよね。
これ、どうでしょうか。鶴亀といえば蝋燭の火ですから子どもには危ないわけです。香炉もそうですよね、金香炉ですから直接触ると非常に熱いです。花にしても持ち易いものではありません。それらをわざわざ子どもに持たせるのです。
これね、現代の合理的な発想でいくなら、三具足は危険だから大人が持って、むしろ子どもたちには、
「今、お葬式で取り込んでいるからあっちへ行っときなさい」
さらには
「自分の部屋でゲームでもしとき」
なんてこと、私たちなら言いかねませんよね…(笑)。
決して、そうではなくて、三具足は子どもたちが持つのです。
実は、このような形で引き継がれてきた伝統には、お棺と導師(どうし)の間という一番近くで、あえて、子どもたちに大切な人の死を見せようとする先人の深い願いが込められているように思います。それはまさに
「よう観とけ」
です。
この伝統からも、やはり「よう観とけ」というのは、すべての亡き人からの声なのでしょう。
死を忌み嫌い、目をそらすのではなく、あえてかわいい子に死を観せようとする先人の願いを大切に伝えていきたいと思います。
こんな言葉があります。
「死を見つめれば生が輝く。生きるならば死を鏡とせよ」山本周五郎
死の自覚を抜きに「今」を大切に生きるということはありません。
そもそも、このような葬儀式など、仏事を開いてくださるのはいったい誰なのでしょうか?。
普通、私たちは一人の人間の死に対し、いのちがそこで終わると見ます。ご臨終(りんじゅう)とこう言うわけですしね。
でも、本当にそうなのでしょうか。10番を見てください。
「曲げて」
これもまた、湖北で使われる言葉です。
湖北では、法事の後の挨拶で、
「この度(たび)、法事を勤めさせていただきましたところ、皆様におかれましては、何かとお忙しい中、曲げて、お参りいただきまして…」
当家の方がよくこのように仰います。それぞれ万障繰り合わしてお参りされた人へのお礼の言葉です。
実は、私たちに仏事の場を開いてくださるのは、当家の方の準備等もありますが、根本的には、亡き人の力なのです。亡き人は、葬儀式から年忌法要にいたるまで、一人ひとりの予定を曲げさせて、呼び寄せてくださるのです。
よくお聞きと思いますが、「忙しい」とは「心」が「亡(ほろ)」ぶと書きます。まさに、
「何かとお忙しい中」
の如く、日ごろ、心が亡んでいる私たちに
「今一度、ここへ座って、自分の生き方を観つめ直せ」
と亡き人が呼びかけてくださるのではないでしょうか。
やはり、今もこのように私たちに用(はたら)いくださる亡き人は仏さまなのです。
この「曲げて」という言葉ですが、このことについて以前、本夛惠(さとし)先生が、
南無という言葉の元は、「ナマス」であり、それは
「膝を屈(くっ)して敬う」
という姿勢である。
だから、「曲げて」というのは、ただ、予定を曲げてだけじゃなく、
「膝を曲げて敬う」
と重なる。こんなふうに話されたことがありました。
ただ予定を曲げて集まるということに限らず、膝を曲げて座らせてもらう、お参りさせてもらう、つまりそこは道場なのです。○○家の家よりも、念仏道場です。そもそも、湖北の田の字型の家は仏さまの家ではないでしょうか。
だから、その家に入ると、目の前に当家の主人が居ても、必ず先に
「南無阿弥陀仏」
と、お内仏(ないぶつ)(仏壇)に合掌されます。それから、当家の主人へ
「今日は法事に参らせていただきました」
と、その後に挨拶されます。ここらでは、これが伝統的お作法になっています。
やはり、湖北の田の字型の家は、○○家の家ではなく、「曲げて」お参りする仏さまの家なのです。
「曲げて」お参りするのですけど、もう少し、亡き人と私たちの関係について考えてみたいと思います。普通、仏事というものは、生きている私たちが供養するという、何か、
「こちらから向こうへ」
の話になっています。実は、そのことの転換(てんかん)を促(うなが)すのが次の言葉です。11をご覧ください。
亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている
これは東本願寺参拝接待所に掲(かか)げられている言葉です。参拝接待所ですから、須弥壇収骨や永代(えいたい)経など、全国からご門徒さんがお参りされるわけです。それは、私が亡き人を案じるよりも、それ以上にこの私が亡き人から案じられているのだという一点を確かめ合ってこられたように思います。つまり
「向こうからこちらへ」
です。それと重ねて、12番をご覧ください。
念仏は請求書ではなく、領収書である 米澤英雄
米澤英雄先生も、このことを明らかにしてくださるのです。請求書というのはやはり、「こちらから向こうへ」です。案じるという姿勢です。
それに対して、念仏は
「向こうからこちらへ」である領収書だということです。
現代、一般的には、葬儀式なら「冥土」とか「草葉の陰」とか、あるいは「慰霊祭」とか、こういう言葉を使います。でもどうでしょうか、これって何か亡くなった人を「下」に見ていないでしょうか。故に「冥福」という言葉も真宗では控えるわけです。この「慰霊」という言葉もですが「霊を慰める」と書きます。やはり両方とも「こちらから向こうへ」です。請求書です。冥福を祈ったり、慰める私たちって…、そんなに偉いのでしょうか。亡き人は私たち人間よりも「下」なのですか。
決してそうではありませんよね。それこそ「参らせてもろうた」という言葉です。亡き人は「冥土」や「草場の陰」というような暗いところに行ってしまった「下」ではありません。亡き人は常にこの私を案じ、はたらき続けてくださる諸仏です。
ただ、これは案じることを否定している話ではありません。そのことを子どもたちの作文から聞き取ってまいりたいと思います。13番です。これは、以前、東井義雄先生が『家にこころの灯(ともしび)を』と題し、名古屋別院の暁天講座の時にお話されたものを文章にさせていただきました。これはよし子ちゃんという女の子がおばあちゃんに対して書いた作文です。読みますね。
庭の柿の木の柿が、とってもおいしそうに色づいてきました。おいしそうにうれたのをおばあちゃんにとってあげようと思って柿の木にのぼりました。よくうれたのをとってあげようと思って竹ざおをつきだそうとしたときに、「よし子、おちんように気いつけてよ。あぶないで」と、おばあちゃんの声がしてきました。下をみると、おばあちゃんが、心配そうにわたしを見上げておられました。おばあちゃんのことを思ってあげているつもりでいたら、おばあちゃんに思われてしまっていました。
「おばあちゃんのことを思ってあげているつもりでいたら、おばあちゃんに思われてしまっていました。」とあるように、案じる私が実は相手から案じられていたということなんですね。「こちらから向こうへ」から「向こうからこちらへ」の転換です。
私、この作文を読むと思うんです。
「ああ、違ってた」
ってね。何か世の中がひっくり返るような感じです。実は亡き人との関係もきっとこうなんだと思います。
勿論、亡き人を案じることは、とても大切なことです。それを否定する話ではありません。ただ、悲しいかな…、私たちは、案じれば案じるほど、かえって亡き人から案じられていることを見失ってしまうように思います。また、補足してこのような作文も紹介します。
「先生、いつも元気だね」ってぼくが言ったら、
「そうでもないよ」って先生が言った。
ぼくは、「だっていつも元気そうに教室に入ってくるじゃない」って言ったら、
先生は「先生がかなしそうに、おはようって、入ってきたら、
みんな、かなしくなるでしょう」って言っていた。
そうだね。
ぼくも、元気な先生が好き。
わらうとぽっちゃりする先生のほっぺたかわいい。
でも、むりしなくていいよ。
たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる。(神奈川県・小二・秋本ゆうき)
日本作文の会・編 『ユーモア詩集』より
「先生がかなしそうに、おはようって、入ってきたら、みんな、かなしくなるでしょう」とがんばる先生が、実は、子どもから包まれているのです。そんなふうに願う先生がもっと、自然で確かな声で
「そうだね。ぼくも、元気な先生が好き。わらうとぽっちゃりする先生のほっぺたかわいい。でも、むりしなくていいよ。たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる。」
と子どもから願われているのです。
どうでしょう。この先生はとても子ども思いの優しい先生です。しかし、それ故に、がんばるほどに「むりしなくていいよ。たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる。」という心に、悲しいかな、出会えないのですよね。何か私たちは、それが善いことであればあるほど、真面目であればあるほど、よし子ちゃんの出会ったような世界、秋本ゆうき君から願われているような世界を取り逃がしていくのです…。
今、そのことを踏まえて、「亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている」の言葉をいただき直したいと思うばかりです。
私はこの二人の作文がとても好きで、法事の時もよく紹介するのですが、このよし子ちゃんの作文についてある門徒さんがこのように言われたことがありました。
「ここに登場するおばあちゃんやけど、これは年寄りならではのことやな。」
私は何故だか解りませんので、
「何でですの?」
って聞くと、
「この場面、若い親なら、待ってられへんやろ」
と言われるのです。確かに私なら、見るや否(いな)や、
「こら、降りんか!」
です(笑)。このおばあさんのようにすり寄って、
「よし子、おちんように気いつけてよ。あぶないで」
なんて言葉が出るはずがありません。待てませんもの…。
もし、この、よし子ちゃんの聞いた言葉が
「こら、降りんか!」
であったら、
「せっかく、柿をとってあげようと思ったのに…、もう絶対、とってあげない。」
こんな結末になってしまうのです…。お斎(とき)の時、お酒を飲みながらだったですけど、その門徒さんの指摘は非常に鋭(するど)いと思いましたわ。
忙しい現代、今、多くの人が「待てない病」にかかっているようです。心を亡ぼしていくのです。
ここで、生前中、私が非常にお世話になったお二人の亡き人のことをお話させていただきます。
最初の方は加田町の雲西寺の住職の長田徹さんです。長田さんは長浜別院に列座(れつざ)として勤務されていました。当時、私も難波別院の同じ列座ということで大阪に居る時から長浜へ入寺してからも本当にお世話になった方です。
長田さんは、笠松(かさまつ)別院の輪番(りんばん)に赴任されたその後、平成十五年の秋に大腸に癌が見つかり、一年後、肝臓への転移という闘病生活を送られていました。
最初、偶然にも長田さんが大腸の検査に行かれる前の日、一緒でした。准堂衆(じゅんどうしゅう)会の勉強会があって、雲西寺さんがお宿だったんです。その時にね、皆で、
「大丈夫。大丈夫。」
なんて言ってたんですよ。無責任に…。
また、長浜別院の報恩講(ほうおんこう)の時に、長田さんから肝臓の転移を診断されたと聞かされました。でも、
『でも、ジタバタしても仕方ない。この事実を引き受けて、がんばるわ。」
そんなふうに笑顔で言われました。何かそんなめぐり合わせでした。
そして、平成十八年の十月十一日、朝早くに連絡がありましてね、長田さんがお浄土へおかえりになられたことを聞きました。
これから読ませていただきますのは、その年、平成十八年の長田さんからの年賀状です。これは十月十一日以降、法事の時によく読ませていただいたことです。
もったいなくも、今年もまた、お陰様の真っ只中で新年をむかえることができました。ありがたいことでございます。
一度っきりの人生。如来様、皆々様、及び家族のあたたかいささえ・励ましにより『足し算』『足し算』で生き切って参ります。
本年も何卒宜しくご指導の程お願い申し上げます。
平成十八年 元旦
この文章の中に「足し算」という表現があります。こう書いておられます。どうでしょう、普通、私たちは「引き算」の生活です。例えば、未来からの「引き算」です。
「あと何年ぐらい生きられるかな」
と考えますよね。八十歳か、九十歳か、百歳か解りませんが、適当な歳から自分の歳を引くのです。
あるいは、過去からの「引き算」です。
「昔はよかった」
と若くて元気だった自分から引き算して今の自分を見るわけです。こんなふうに言われる人がいますよね。
「年とったらあかんわ」
ただ、それはやはり、お年寄りの方にとっては、切実に感じることだと思いますけど…。
しかし、そこにですね、「今」が無いのです。「今」を大事に生きるということを失います。目は未来か過去に向いているのですから。
それに対して「足し算」ということは、この「今」を大切に生きるということです。その時その時を「〇(ゼロ)」として「今」を賜るのです。それが「足し算」の生活であると思います。
闘病生活の中で、まさに長田さんは、そんなふうに生きておられた方でしたわ。明るくて、前向きでね…、そんな方でした。
そして、この「足し算」という生き方は、皆が同い年なわけです。「引き算」なら、若い方が良いのでしょう。そうではなく、厳粛なる「今」です。無常の前には、老いも若きも誰もが同い年です。
「どうか、一度っきりの人生。「足し算」「足し算」で「今」を大切に生き切ってください。」
長田さんからそんなふうに呼びかけられているように思います。
二人目の方は、私の叔父(おじ)なんですが、犬伏稔という方です。同じ年、平成十八年、八月十九日にお浄土へおかえりになられました。
私の母の一番下の叔母(おば)と結婚されてから、京都の僧侶の学校である専修(せんしゅう)学院へ行かれ、大阪の円覚寺というお寺に入寺されました。
僧侶になるにあたって、専修学院での信国淳先生との出会いが自分にとっては大きなことであったとよく言われていました。
この叔父はですね、滋賀県が好きな方でね、近江米しか食べないのですよ。醤油なんかも、こっちへ来ては買って帰るのです。ふなずしも好きでしたね、それにお酒もね。
その叔父が平成十八年の冬に入院されました。まわりの親戚は大丈夫だろうと思っていたんです。ちょっと検査が長引いているぐらいに思ってたんですよ。なんせまだ若い叔父のことですから。
結局、退院したのが、春過ぎでした。それでね、退院したんで、早速、滋賀県へ、こちらへ遊びに来てくれました。
お話したいのは、その時のことなんです。叔父は夕方にお参りがあるので、昼過ぎ、そろそろ帰るという時に、
「蓮(れん)ちゃんは?」
と、こう言うのです。
蓮というのは、息子のことなんですが、まだ、帰ってこないのかと訊くわけです。
「まだ、学校やわ。しかし今日は水曜日やから、もうちょっとしたら帰ってくるけどな。」
と言うと、叔父は
「蓮ちゃんの顔見たら帰るわ。」
「夕方にお参りがあるんやろ、大丈夫?」
という私たちでしたが、叔父は待っていました。
それがね、
「もうちょっとしたら帰ってくる」
と言ったのにね、蓮が帰って来ないんですよ。こんな日に限って…(笑)、そうしたもんですけどね。
三十分経っても、帰ってきません。ですので、私らは、
「どこかで、寄り道してるかもしれん。夕方にお参りがあるんやろ、もう、帰った方がいいで。」
と言うのですが
「いや、もうちょっと待ってるわ」
と叔父は言うのです。
時間は過ぎていきます。その間に、出来ることをと思って、荷物を車の中に、そうそう「お米」もありますし、運んだりしてました。全部運んで、もう皆、外へ、山門に出てました。
それでも、帰ってきません。私らがいくら
「夕方にお参りがあるんやろ、もう、帰ったら。また今度、連れていくから。」
と言うのですが、叔父は
「会わな帰れん」
と言うばかりでした。
何回かこの「また今度」と「会わな帰れん」のやり取りが続きました。ですので、結構待ちました。
そしてね、やっと道の向こうの方にとぼとぼ歩く子どもの姿が…、そう、やっと息子が帰ってきたんですよ。長いこと待ちましたわ…。
叔父は喜んで
「蓮ちゃん」
と呼ぶのですが、息子は愛想ないんですね
「はあ」
って言うだけでした(笑)。
それでも、叔父は納得(なっとく)してね、そして帰っていかれました。
実はこれが最後でした…。その後、八月十九日にですから。
叔父はあんまり仏法を語る人ではありませんでした。でもだからこそ、このように最後に残してくださったことが私から離れません。どこまで叔父は自分の病気のことを解っていたかは知りようもないのですが、これが最後だったのです。
今、聞こえてくるのは、肝心(かんじん)の今を
「また今度」
といつも先送りして生きる私に
「最後やぞ」
と呼びかける叔父の声です。
この「最後」ということを注意したいのですが、これは
「最後と思いなさい」
ということではありません。
先ほどの「足し算」も、それはプラス思考という「思い」のことではありません。
これは事実です。一刻一刻が初事であり、見納めなのです。心の持ち方ではありません。これが厳粛なる事実なのでしょう。
それにしても、つくづく、私たちの生活は
「また今度」
あるいは
「何々してから」
の繰り返しのように思います。
「今」を大切に生きるというより「今」がいつも、準備にばかり追われているのかもしれません。ですから、すべてが当たり前になるわけです。
人は「最後」であるという自覚に立つ時にだけ、まわりの人のことを辛うじて大切に出来るのだと思うのです。そうですよね、最後ですから、もう少し優しくなれますよ。少なくても今よりは。
でもね、ということは、私はかなり、まわりの人に粗雑に乱暴に接しているということですね。何かそんなこともまた、亡き人から教えられてくるのです。
14番をご覧ください。これは、長浜警察署の掲示場にも交通標語として貼られていた言葉です。
おかあちゃんがきをつけてねといった
ぼくは はい いってきますといった
おかあちゃんのこえがついてきた
がっこうまでついてきた
あかぎかずお(小学一年生)
お母さんの声が、ずっと僕を離さないのです。実はこのお母さんの「きをつけてね」のように亡き人もまた、その人を離さないのです。そうですよね、亡き人は学校までどころか、亡くなられてからもずっとその人を案じ続けてくださるのです。離さないのです。
今回、その声を皆さんと一緒に確かめてまいりました。
それは、俊子さんのお母さんからの
「よう観とけ」
という声。
谷本啓子さんへの
「お母さん」
という声。
西藤勝信さんへの
「お父さん」
という声。
長田徹さんからの
「足し算で」
という声。
犬伏稔さんからの
「最後やぞ」
という声。
そして、その声は亡き人に限らず、
「よし子、おちんように気いつけてよ。あぶないで」
あるいは
「でも、むりしなくていいよ。たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる。」
という声々(こえごえ)なのです。
実は、人間というものは、このような諸仏からの呼び声の中に生きているのですよね…。
なのに、そういうことを一向(いっこう)に受け取らず、毎日毎日、自己主張ばかり繰り返しているのが私たちの姿ではないでしょうか。
ですから、そのように心が亡んでいる私たちのことを、亡き人は仏事を開き「曲げて」くださるのです。
あるお弟子さんが
「念仏は、心の中で称えていれば良いのですか、それとも、大きな声の方が良いのですか。」
法然(ほうねん)上人にこのような質問をされたそうです。
それに対して、法然上人が答えられたのが15番の言葉です。ご覧ください。
「念仏はわが耳に聞こゆるほどに」法然上人
心の中でさえ、あるいは、大きな声の方がという、これらは結局、どちらも自己主張です。請求書ということです。これはどちらが良いのですか?という次元のことではなく、法然上人は、あらゆる人から呼びかけられている、どうか、その声を聞いてくださいということを
「わが耳に聞こゆるほどに」
という言葉で表現されているのではないでしょうか。それはやはり領収書という方向であるということです。
玉光順正(たまみつじゅんしょう)先生が特に言われることですが、最近、どこの法座(ほうざ)に参っても、念仏の声が聞こえなくなりました。以前なら、口を開けば
「ナンマンダブツ」
と称えていたお年寄りがもっとたくさん居られたように思います。請求書の念仏ばかりということでしょうか。
今、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を目の前して、
「念仏はわが耳に聞こゆるほどに」
という言葉をいただき直したいと思います。
私の声を通して、あらゆる諸仏からの呼び声を聞いていくのです。その時、その場に、一人ひとりの声がおのずと響きとなるのでしょう。
そして、「向こうからこちらへ」のあらゆる諸仏からの呼び声を聞き者の上に、本当の意味で「こちらから向こうへ」ということがせずにおれないこととして見えてくるのではないでしょうか。
今回、「亡き人は」というテーマでお話させていただきました。
それは一重(ひとえ)に、私への呼び声を聞く者の上に「亡き人は仏である」という頷きがあるのです。それは一つのことなのです。
「亡き人は仏である」ということは、「答」としてあるのではなく、一人ひとりがそれぞれの人生において具体化していくことなのです。
さらに言えば、亡き人が仏になるか、ならないかは、私一人(いちにん)にかかっています。大切な人の死を「参らせてもろた」と言い切れるような生き方をお前はしているのかと、この言葉からいつも問われ続けているのでしょう。
これで終わらせていただきます。ありがとうございました。