2025年05月07日 ▼蓮如上人御影道中(第352回)のご縁を頂きました。

あらためて「蓮如上人御影道中」に思う 住職記

■1420年12月28日、蓮如さんが六歳(数え年)の時、生母は本願寺を去られました。父の存如上人は海老名氏の娘、如円を正妻として迎えるため、生母はひそかに身を隠されたのです。幼少の一番お母さんが恋しい時にです。そしてもう二人は永遠に出会うことはありませんでした。その時のことが書かれた次のような文章があります。

父は親鸞の血を引く人でありながら、母親は名前も知られず、どこからやってきたともわからぬ賤しき女であったと言われています。ところが、六歳のときに、身分の高い家から正式に妻がやってくる。その結果起こるトラブルを予想して、母親は、「ここは自分が身を引いて去るのがいちばんだ」と判断し、万感の思いを胸に秘めながら六歳の蓮如を残して、ひとり、十二月の木枯らしの中を去っていったと物語られています。
『他力』五木寛之著

■そこに「賤しき女」と「身分の高い家から正式に妻」と表現されるように、蓮如さんも不当な差別の現実に泣いた一人なのです。正直私なら血を重んじる差別体質の本願寺に失望し、終には呪うのではないかと思うのですが、蓮如さんは決してそうするのではなく、生母の遺言である、

願わくば、あなたの一生をかけて、親鸞聖人の御教えを、再び興して下さい
『蓮如上人遺徳記』

の言葉に生涯を尽くされ、各地に歩いて教化されたのです。「蓮如上人御影道中」はそのようなご苦労を偲ぶ仏事なのですが、蓮如さんはその使命感と同時にきっと行く先々でお母さんのことを探し続けておられたのでしょう。数多の涙の数だけ志願になったそのお心を思うと、私の中にも「蓮如上人御影道中」が染み込んできます。

■去年に続いて今回も随行教導さんから「蓮如病」という言葉を頂きました。それは病気ではなく(笑)、352回という今も蓮如さんを慕う人々のことです。今年も蓮如さんが歩いて来てくださいました。合掌

5月6日

↑五村別院到着(13:27撮影)

↑勤行 於五村別院本堂(13:39撮影)

随行教導より法話 於五村別院本堂(13:52撮影)
太田浩史氏 富山教区大福寺住職

教導さんからのひと言(抜粋文責 澤面)

●吉崎への御下向は「法義相続」の道中。

●本山への御上洛は「真宗再興」の道中。

●今、教如上人による「仏法再興」が切に願われている。

●法のために身を捨てよ。

●能登では蓮如上人の御影を中心にして再興(復興)が進められている。

↑五村別院出発(14:28撮影)

↑相撲町をお通り(17:29撮影)

↑長浜別院到着(17:57撮影)

↑勤行 於長浜別院本堂(18:02撮影)

随行教導より法話 於長浜別院本堂(18:15撮影)
太田浩史氏 富山教区大福寺住職

教導さんからのひと言(抜粋文責 澤面)

●安田理深先生のお話はちんぷんかんぷんでしたが、何とも言えない充実感があった。

●結びは蓮如上人御影御帰山式ですが、それも通過点です。

●今歩いているのは無始よりこのかた尽未来際。

●「蓮如病」という、今も蓮如上人を慕う人々がいる。

5月7日

↑勤行 於長浜別院本堂(8:30撮影)

↑長浜別院大通寺直参門徒会長挨拶(8:44撮影)

会長さんからのひと言(抜粋文責 澤面)

●昨日の太田浩史先生の「無始無終」の言葉の通り、今日が次の蓮如上人御影道中(353回)に繋がっている。来年もお待ちしております。

↑長浜別院出発(8:50撮影)

▲蓮如上人(一四一五〜一四九九)が亡くなられた後、北陸、吉崎での教化の御苦労とそのお徳を偲ぶ法要のご縁が生まれ、蓮如上人の御影を本願寺よりお迎えして勤められたのが蓮如上人御影道中の始まりです。それ以来、毎年、吉崎別院で蓮如上人御忌(ぎょき)法要が厳修される時期に、蓮如上人が歩いたといわれる吉崎別院までの約二四〇キロの道程を、随行教導(ずいこうきょうどう)や、宰領(さいりょう)をはじめとする供奉人(ぐぶにん)方が中心となり、自主参加(一般参加)の方々とともに、六十七の会所に立ち寄りながら一週間かけて歩き(御下向(ごげこう))蓮如上人の御影を門信徒の待ち受ける吉崎の地へ運ぶ旅が連綿として続けられています。今年は352回を迎えました。

本文(抜粋文責 澤面)

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