テーマ 一人ひとりの存在(64座)

2005(平成17)年4月1日


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住職記

▼先日、二月十日、日本が北朝鮮に勝った。サッカーには興味がない私でも、やはり、悪い気はしなかった。テレビの瞬間最高視聴率が五七、七%とあり、まさに日本中が勝利に酔いしれたが、次の日、朝日新聞の「天声人語」には、このように書かれていた。

 瞬間最高視聴率は五七、七%だった。その時、おそらく数千万の眼の追うボールが、北朝鮮ゴールに飛び込んだ。日本チームは最後まで粘り、よくやった。(中略)サッカーにしろ音楽にしろ、その魅力の根っこには、生まれた国や国籍を超えて訴えかけてくる、個人のひたむきな姿がある。

▼私たちがはっきりとそこに線を引き、敵、味方をつくることによって、限りなく見えなくなるものがある。それは、一人ひとりの存在…。
▼沖縄県糸満市摩文仁平和祈念公園内に「平和の礎」がある。その建設の趣旨はこのように記されている。(表紙参照)

 沖縄県の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和の確立に寄与することを願い、国籍及び軍人、民間人を問わず、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎(いしじ)」を建設する。

▼礎(いしずえ)とは基礎となる大事な物事(岩波・国語辞典)とあり、一人ひとりの存在を刻み続けることが、何よりも平和の基礎であると教えられる。
▼親鸞聖人の和讃の中にも、このような言葉がある。
 
 十方の如来は衆生を  一子のごとくに憐念す
「浄土和讃」(聖典四八九頁)

▼仏は、私たち一人ひとりの存在を、一子のごとくに憐れみ、念じている。
▼今度のサッカーに限らず、一人ひとりの存在が見えなくなることは、私の日常生活の中にも多々ある。敵と味方に分けること、十把一からげにすること、順番づけをすること…、このような人をもの化、点数化する感覚が、いかに平和に、そして、仏に背いているかということを考えたい。
▼戦争と差別が絶えない現実の中で、今、私たちに願われていることは、自分の心の礎にも、一人ひとりの存在を刻み続けることではないだろうか。

編集後記

▼私が当時、二十二歳、難波別院に勤め始めた頃、平等明信先生(現在、函館別院輪番)からこんなふうに怒られたことがあります。その日は、日曜日ということで、朝早くから、納骨のため、たくさんの人たちがご遺骨を手に、お参りに来られていました。「納骨は、すでに三つです」と急いで告げる私に、平等先生は、大声で怒鳴られました。「三体やろ!」と。ご遺骨…、一人ひとりの存在が見えていない「三つ」ではなく、一人ひとりの存在を見る「三体」なのですよね。山ほどある(…)怒られたことの中で、このことは、今もしっかりと、心に残っています。 ところで、皆様は、大丈夫ですか?。例えば、二人の法事を「今年は法事、二つ当たってる」なんて言い方をしていないでしょうか。僧侶の中にも「今、中陰、二つ抱えてる」なんて言い方をされる人がよくおられますし…。(笑)

▼スポーツ観戦、特にオリンピックの時などは、「愛国心も大切だ」などとも言われ、「日本、がんばれ!」という空気で一杯になります。私も、日本を応援するわけですけど、ただ、その愛国心は、やはり、一人ひとりの存在を見い出す「浄土」という国でありたいと思っています。お寺の名は、浄願寺ですものね…。


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