昔、親鸞聖人の教えに生きておられた先祖たちは、世間から『門徒もの知らず』と言われていました。正しくは『門徒もの忌み知らず』です。
それは真宗門徒は、いわれなき物忌みや迷信というものに流されることなく、親鸞聖人の教えを中心に生活されていた所以であると思います。
今日、それとは正反対と言わねばならない私たちが、何より頼りにしている『みんながしている』ということについて、少し考えてみたいと思います。
映画にもあったようですが、先日、このような話を聞かせて頂きました。内容は大体、次の通りです。
数カ国の人たちが乗り合わせた豪華客船が事故に遭った。このままではやがて、海の中へ沈んでしまう船の中は、パニックに陥った。我さきと数少ない救命ボートの奪い合いになり、力のある男たちがそれを独占してしまった。困ったのは、船長らである。一人でも多くの生命を守るためには、やはり、子どもたち、お年寄り、女性らを救命ボートに乗せることが先決だからである。見渡す限り、救命ボートを独占しているのは、世界各国の男たちであった。船長は早速、その面々に次のような言葉で説得し始めた。
イギリス人への船長の言葉
『あなた方はジェントルマンではないのですか。ボートはレディーファーストですよ。』
…イギリス人は、ボートを譲った。
ドイツ人への船長の言葉
『ボートには、男が最後です。これはルールですよ。』
…ドイツ人はボートを譲った。
アメリカ人への船長の言葉『今、子ども、お年寄り、女性らを助けたら、あなた方は間違いなく、ヒーローですよ。』
…アメリカ人は、ボートを譲った。
日本人への船長の言葉
『イギリス人も、ドイツ人も、アメリカ人もみんな、ボートから降りましたよ。』
…日本人は、ボートを譲った。
この話は、それぞれの国の人たちが現代、何を大切にしているかということを如実に教えていると思います。
『みんながしている』、日本で生活する私もまた、この言葉に、なんと弱いことか。あなたはどうですか。確かに、その集団に入っていると安心なんですよね。しかし、そこで、私たちは限りなく作っている罪というものがあるように思うのです。
『みんながしている』、そのことによって、いつも、踏みつけられている人がいます。子どものいじめの問題から、差別の問題にいたるまで、生命までも奪われていく人がいるということを、私たちは見落としていないでしょうか。
『みんながしている』、それに安易に従う私たちが誰より、知らず知らずのうちにそんな世間の仕組みを作る側に立ち、作る『張本人』になっているのではないでしょうか。
真宗門徒と呼ばれた人たちは、決して、『みんながしている』ということで、生活されていたのではないようです。(表紙参照)その姿は、誰の言うことも聞かず、ただ独断でということではなく、真宗の教えにいつも照らされながら、自分を生きておられたのだと思います。
真宗同朋会運動の原点である『真宗門徒一人もなし』という悲嘆の自覚を立脚点として、『みんながしている』、そのことに潜む罪を見抜く眼と、そのことによって苦悩されている人たちの声を聞く耳を回復していきたいと思うばかりです。
『みんながしている』それが『伝統』と呼べることなら、それは逆に、大切なことになるのですよね。それならば、当然『因習』と『伝統』の違いを明らかにする必要があるように思います。
以前、宮城 豈頁(みやぎしずか)先生から、こんな言葉を聞かせて頂きました。
因習とは過去によって 今を決めることであり
伝統とは今によって 過去に出会っていくことである
いつも、そこに自分かあるのか、ないのか、そのことが問われているように思います。
ところで、話にはなかったのですが、船長さん、もし、北朝鮮の人にだったら、どんなふうに説得したのでしょうね。やっぱり、あの人の名前を出したのでしょうか…。