ある日です。僕がくたびれて背中が痛くてしかたがないもんですから、腹ばいになって、中学一年生のコウジ君に背中の上に乗ってもらいました。その時、もうすでに休んだはずの、さやかちゃんという保育園の年長の女の子が、泣きべそをかきながら階段から下りてきました。そして、僕が腹ばいになって、背中の上に乗ってもらっている部屋へ入ってきました。入ってくるなり、その光景を見てギクッと立ち止まるんです。とたんに、さやかちゃんはコウジ君に体当たりをした。さやかちゃんがその時にね「園長助をいじめるなあ!」って言ったんです。僕は「ごめん、園長助がね、ちょっと疲れてたもんだから、コウジ君に頼んで、乗ってもらってたんだよ」と言ったんです。そしたら、僕の顔をじっと見ていたさやかちゃんが突然「ワアーン」て泣きながら僕の胸にむしゃぶりついてきた。僕はそのさやかちゃんを抱っこしながら思ったんです。今まで僕は、自分が子どもを抱っこしてやってるんだって…、子どものために何かをやってやるのだと思っていた。正義はいつも私についている。そんな偉そうな格好しながらね、その僕が、子どもを抱いているはずの僕が、さやかちゃんを抱きながら「ああ、違ってた」と思ったんです。「抱かれているのは俺の方や」と思いました。そしたら、大袈裟な言い方だけど、世の中がぐるぐるってひっくり返っちゃったんですね。それはものすごく痛快な出来事だった。
※「園長助」とみんなから慕われ続けた祖父江文宏さんの著
『子どもたちが観せてくれたこと』より(途中、数箇所に中略部分があります)
1、よばれ
●昔から、湖北では、法事のことを「よばれ』といいます。
御馳走をよばれるから?
お酒をよばれるから?
普通は、そんなふうに考えてしまいそうですが、どうも、そうではないようです。
2、よばれとは呼ばれ
●よくよく、色んな方に訊ねてみると『よばれ』とは、亡き人から呼ばれるという意味だそうです。つまり、法事というのは私たち、一人ひとりが亡き人から呼ばれて参集する場であると、湖北では受け止めてきたようです。
3、私たちはどうか
●それにくらべて、今の一般的な法事、ことに葬儀などでは、どうでしょうか?『ご冥福をお祈りします』という言葉に代表されるように、亡き人を『呼ぶ』という在り方になっていて、先の『呼ばれ』とは、全く方向が逆になっています。
4、呼ぶほど
●勿論、亡き人を呼ぶことは、人間として大切なことだと思います。ただ、悲しいかな…、私たちは、呼べば呼ぶほと、亡き人から呼ばれていることを見失ってしまうということがあるように思います。表紙の文と同じく、そのことの一場面を次の詩が教えてくれています。
「先生、いつも元気だね」ってぼくが言ったら、
「そうでもないよ」って先生が言った。
ぼくは、「だっていつも元気そうに教室に入ってくるじゃない」って言ったら、
先生は「先生がかなしそうに、おはようって、入ってきたら、
みんな、かなしくなるでしょう」って言っていた。
そうだね。
ぼくも、元気な先生が好き。
わらうとぽっちゃりする先生のほっぺたかわいい。
でも、むりしなくていいよ。
たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる。(神奈川県・小二・秋本ゆうき)
5、呼ばれていた
●子どもが元気であって欲しいとがんばる声で『呼ぶ』大人が、実は、もっと、自然で確かな声で子どもから『呼ばれ』ています。私たちと亡き人との関係もきっと、こうなんだと思います。
6、耳を澄ます
●法事を『呼ばれ』と互いに言い合ってきた先人の願いとは何か。それは、亡き人から呼ばれる声に耳を澄ますことに尽きると思います。
7、どんな声を
●さて、その時、私たちは、どんな声を聞くのでしょうか…。
追悼 供養 鎮魂…
私のために何をいろいろと
私は浄土にいる
心配するな
私よりそちらさまこそ
早く確かな生をいただきなさい
(浄願寺掲示板の言葉・九六年八月)
お前も死ぬぞ(毎田周一)
(浄願寺掲示板の言葉・○二年一一月)
結婚式のことも「よばれ」といいますが、その辺はどうなんでしょうか。また、ご存知の方はお教え下さい。ただ、昔は結婚式もお内仏(仏壇)の前で執行されたようですが…。
呼ぶより呼ばれていた…仏と私の関係。そこからいつも、あらゆる人と私の関係も問われるように思います。わからないんですよね、相手から呼ばれていることが…。
「よばれ」とは「呼ばれ」さらに「喚ばれ」なんでしょうね。