テーマ 正反対と考えるものが(46座)

2002(平成14)年4月1日


表紙

悲しみは 私を強くする根
悲しみは 私を支える幹
悲しみは 私を美しくする花

だから 悲しみは いつも
枯らしてはいけない
湛(たた)えていなくてはいけない
噛みしめていなくてはいけない(坂村真民)

住職記

▼節分の豆まき、清め塩、死を連想させることからか四番を嫌う…そんなことに象徴されるように都合の良いことは招き寄せ、都合の悪いことは排除する、現代、私たちの生き方はこれに尽きるようだ。果たして昔からそうなのだろうか。

▼わが長浜市相撲町では、葬儀式で玄関からお棺が出る時に、仏具の要である鶴亀、香炉、花、そして写真は子どもが持つという伝統(湖北は全体的にそのようである)がある。仏事において、

「今、取り込んでいるからあっちへ行っときなさい」

と言うのではなく、あえて、子どもに死を見せようとする先人の願いがそこに感じ取れる。

▼作家の山本周五郎も

「死を見つめれば生が輝く。生きるならば死を鏡とせよ」

と言い、また、国を越えて音楽家のモーツァルトの言葉に

「死は私の最良の友である」

とある。

▼私たちが一番に都合の悪いことと考える死を逆にとても大切にしてきたようだ。

▼次の幾つかの話からも考えてみたい。

キムチを漬ける秘訣は砂糖のさじ加減が大事である。

おはぎの美昧しさは塩が甘みを引き立てる。

お笑いの芸というのは悲しみから始まるのであって、涙を否定したようなものは本当の笑いではない。

お寺の鐘やおりんは、当然、鳴らしても割れないように頑丈にしてあるけれど、ある部分は非常にもろく造られている。理由は、そのもろい所があるから、音色がまわりに響く。

▼これらのように、私たちが正反対と考えるものが実は、そのものを輝かし、そのものの昧になり、そのものを笑いにし、そのものの響きとなるようだ。

▼徹底的に片方の都合の良いものばかりを集めようとする私たち。今こそ、先人の願いやものの道理に学び直したい。そして、表紙の言葉をはじめ、人生を最も多感に生きる十代の人の言葉と、人生を今日まで重ねてこられた八十代の人の言葉(次頁参照)に耳を澄ませたいと思う。

★「悲しみの底から」野畑智奈美(中学三年生)『蓮如物語』感想文集より

 この物語を読むと蓮如ほど、「人間が好き」だった人はいなかったと思うのです。共に笑い、共に泣き、どんな人でも包み込んでくれるような大きさ、豊かさを感じます。でも、その蓮如の豊かさは、おそらく悲しんで悲しんで悲しんで…悲しみ抜いた底から生まれ出てきたものなのでしょう。
 大切なことは蓮如のように、自分自身の心の中にある「悲しみ」から目をそらさず、とことん向かいあっていくことなのではないでしょうか。学校などでも、ともすれば「暗さ」を敬遠しがちな私たちですが「暗さ=悲しみ」と、正面から向かい合った人こそが、人の悲しみを共に悲しみ、また、それを喜びにかえて、他の人にも希望の灯をともせるような明るい生き方ができるのだと思いました。
 私も蓮如上人のように生きたいと願います。

★『生命の見える時 一期一会』松本梶丸著より

 Kさん夫婦は共に八十五歳を超えておられるが、三回の食事の後、必ず骨壺でお茶を飲まれるという。別に奇をてらったわけではない。いかに確かな現実でも、人間の側から容易に真向きになることのできない死を、骨壺という形を通して目の前にひき据えたのであろう。
「目の前にこうして骨壺を置いてみると、そこから、いつも呼びかけられている生を感ずる。やがて自分も確実にこの中におさまっていくのだと思うと、ただ今の生がとても愛しく、また安らかに感ずるし、また損得や目先のことに振り回されている、自分の生きざまの空しさを知らされます。それと、生きているのは今しかないんだ。その今を精いっぱい大切に生きたいという意欲がわいてきます」と、Kさんはいかにも楽しそうにおっしゃる。

編集後記

●キムチの話は、私がまだ大阪に居た大学生の頃、近所の在日韓国人のおぱさんから聞いたことです。人によって漬け方は異なるとは思いますけど、そこのキムチはすごく美味しかったです。ちなみに、市場で売っている桃屋の「キムチの素」の原材料名にも「砂糖」は一番目に表記されていますよ。

●おはぎのことは今更、言うまでもなく、皆さんご承知ですよね。

●「涙と笑いは別々のものではない」正にそんな芸を見せてくれたのは、今は亡き、藤山寛美氏ではなかったでしょうか。

●お寺の鐘やおりんについては、私が難波別院に勤めている時に平等明信(たいらみようしん)先生(前函館別院輪番)から聞いたことです。今から思えば、この方から実にたくさんのことを教えて頂きました。この話に関連して、最後に次の文章を紹介します。

雅楽の笙(しょう)、篳篥(ひちりき)の大きな特徴は必ず楽器にさわりがある。音がすっと出ないようになっている。音がすっと出るのをさまたげている。そういう工夫がしてある。音がなかなか出にくいわけです。(中略)そういう「さわり」が雅楽の楽器の大事な装置です。雅楽の楽器には全て不自由な「さわり」の装置、障害装置がついている。そして、そこから雅楽の楽器の魅力的な音色が出てくる。(中略)「さわり」があればこそ、思いのままに吹ける音色よりももっと深い、思いを超えたようないのちの深いところ、魂に響くような音色が出てくる。

『無明の闇』宮城 豈頁(みやぎしずか)著より

●さて、片方の都合の良いものばかりを集めて造った私たちの「人生」という名の楽器からは、ー体、どんな音色が、どんな響きが、どんな余韻があるのだろうか?あまり期待は出来ません…ね。


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