テーマ ぼけているのはどっちだ(48座)

2002(平成14)年8月1日


表紙

●私たちは子どもとよく山へ出かけます。子どもたちには、山の掟があります。一つは、火を焚く時には必ずまわりに「お願いします。火を焚かせていただきます」と言おう。二つには、「お湯や油を熱いまま絶対に土に流さない」。これは子どもが言い始めました。僕はそれを聞いていて、すごいなと思いました。そしたら、この間、北海道へ行ったときに、アイヌの方とお話をする機会がありました。その方がとってもすてきなことを言ってくれました。アイヌの人たちは娘を育てるときに、「お湯を地面にこぱすな」ということをまず最初に、一生懸命に教えるんだと、そうおっしゃいました。
●人間が生きていくということは汚いことでしょ。生き物というのはそういうもんですよね。食べたら排泄するんですもん。だけどそれに蓋をしてしまったところに、見なければならない大切なものを見えなくしているような気がしてしかたがありません。不必要だったら、熱い油だって平気で土に捨てられる人間、汚いからと下水に流してしまう人間。そんな文明人より、僕はうちの子どもたちのように、熱いものを土にこぽさないんだ、それから火を焚く時も、「ごめんなさい。火を焚かせてもらいます」と、きちっと四方に言う。頭下げて言うんですよ。そんな子どもたちの生き方の方が、僕ははるかにすてきだと思います。だいいち、そんな子どもたちの顔の方が生き生きとして、とってもすてきですもん。この頃の日本人の顔は、卑しい顔をしてるでしょ。


『子どもたちが観せてくれたこと』祖父江文宏著より

住職記

▼痴呆症になると三歳以前の記憶に戻るそうだ。現代人はその状態を「ぼけてしまった」と言う。辞書を引くと「脳の障害のため、頭の働きが全く欠けてしまっていること。また、そういう人。ばか。」(岩波・国語辞典)とある。それにしても「ばか」とはひどい表現である。本当にそうだろうか。

▼痴呆症とは反対と言うべきか、人間は三歳ぐらいから知恵がつき始める。私たちはその「知」というものを何よりの依りどころとし、今日まで文明、文化を発達させてきた。しかし、これが人間としての真の「豊かさ」といえるのかという疑問は、誰もが感じていることに違いない。

▼そんな人間の「知」については、仏教の教えに生きた中国の道綽禅師がこんな比喩で説いている。人間がとてつもない大きな氷を溶かすために手持ちの熱湯をかける。すると当然その部分だけは溶ける。しかし、一晩経てば、かけた熱湯の分量だけ氷になって増えていると。ここでの氷とは悪、熱湯とは善と呼ばれるものであり、結局、人間が為すことは悪になってしまうということであろう。

▼また、キリスト教でもこのように説いている。神がこの世を作り「いのちの木」と「知性の木」を植える。神はアダムとイブに「いのちの木」の実は食べても良いが「知性の木」の実は絶対に食べてはいけないと忠告する。しかも、二人は忠告を破り「知性の木」の実を食べてしまう。そのことによって、二人はエデンの園から追放になると。ここでのアダムとイブとは他でもない、私たち人間のことであろう。

▼考えてみれば、戦争、環境、公害といった地球的問題から、事件、事故に現れる社会的問題、家庭崩壊の危機から、一人ひとりの孤独感に至るまですべて、人間の「知」が産み出したものである。

▼アイヌの人たちは、痴呆症になられた人を神用語といって、神の言葉を話されるようになったと言う。決して「ぼけてしまった」や「ばか」とは言わない。むしろ、人間の「知」というものを見定めた上で、

「ぼけているのはどっちだ」

と常に自分に問い返して行かれたのではないだろうか。

▼表紙の文章にもあるように、卑しい顔をした文明人の私たちこそ、その問いに耳を傾けねばならないのではないだろうか。

編集後記

●先日の6月1日、祖父江文宏さんが特発性間質性肺炎のため亡くなられました。(還浄)長浜別院大通寺での「御坊さん人生講座」にも、97年8月26日と99年3月30日に来院され、私も実に多くのことを学ぱさせて頂きました。(その時の話を録音したテープをたくさんの人に配ったぐらいです)祖父江さんは、自らの病気のことも知り、車いすの生活に人ってからも、「残された時間にやっておきたいことがたくさんある」と言われ、まさに最後まで完全燃焼されました。願わくは、そんな祖父江さんが歩まれた方向に、私も尋ねていく者でありたいと切に思います。本当に御苦労様でした。(1999年3月30日、御坊さん人生講座の後、長浜の駅前の居酒屋でいっしょにお酒を飲んだ時のことを想い出しながら…)

●キリスト教では、人間を救うということは、「知性の木」から「いのちの木」へと呼び返す、つれ戻すことなんだと説かれています。親鸞聖人もまた、「帰命せよ」いのちに帰れと繰り返しいわれます。これは、私たちがまた、この「知」でもって、ある理想を掲げて、突き進んでいくその方向には決して救いはないということを教えているのではないでしょうか。そのことだけは、色んな人の言葉に触れながら肝に銘じたいと思っています。

人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まることを許して呉れた事がない。(夏目漱石)

生まれ子が 次第次第に知恵つきて 仏に遠くなるぞ悲しき(一休禅師)

浄土宗のひとは愚者になりて往生す(法然上人)

よしあしの文字をもしらぬひとはみな 
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは 
おおそらごとのかたちなり(親鸞聖人)


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