テーマ どんないのちを生きるのか(33座)

2000(平成12)年2月1日


表紙

私を超えて
延々として続いてきたいのちのつながり
この地球の上で
あらゆる生きものとつながっているいのち
その二つの座標が
いのちというものを見極めていくときに
必要なんじゃないのか

祖父江文宏

住職記

■この二〇〇〇年という大きな節目に

「今年こそ、世の中が少しでも変わりますように」

という声があちこちで聞かれたと思います。それからーカ月が経ち、どうでしょう、相変わらず日本は、痛ましい出来事が毎日のように起こっています。何処にも出口が見つかりません。果たして、このままでは世の中はどうなってしまうのでしょうか。
■以前、浄願寺の掲示板でこんな言葉を紹介しました。

「おやじ、今年はどんな年になるやろ」
「それは、どんなお前になるか、それだけや」

■今年、この会話が切に迫ってきます。大切なことは、二〇〇〇年がどんな年になるか…ではなく、どんな私になるか…ということです。
■ここで、どんな私になるか…という、この「私」について少し、考えてみたいと思います。昨年、宮司町の満立寺さんの『同朋のつどい』という研修会で宮城 豈頁(みやぎしずか)先生からこんな話を聞かせて頂きました。

人間の遺伝子には三六億年のいのちの歴史が刻まれているのだそうです。それは私のいのちは、ただオギャーと生まれてから今日までの、私のしてきたことだけで出来ているんじゃない。

■この地球上に生物が誕生したのが三六億年前と云われていますから、いのちはずっと今日まで休むことなく、私のところまで果てしなく続いてきたわけです。私というのはこんな気の遠くなるような、永い永いいのちを生きる者だと教えられます。

■今年の一月、浄願寺の掲示板でこんな言葉を紹介しました。             

先祖から引ぎ継がれてきたいのちの歴史は二〇〇〇年どころの話ではない。

考えてみると、私たち現代人は、今年、二〇〇〇年に大騒ぎをし、二〇〇〇年に気を執られすぎて、このような無始より連続してきたいのちを生きる「私」という事実をまったく見失っていたのではないでしょうか。

■宮城先生はまた、このように言葉を続けられました。

ある意味では人間として体験すべきことのすべてがこの体にちゃんと刻み込まれている。そうしてみますと、いのちはバラバラじゃない。何か互いに呼びかけ合い、うなづき合う。そういう力を持っており、そういう深く広いいのちをこの身に頂いているのです。

■今まで私は、いのちというのは「私のいのち」とか「あなたのいのち」と表現するように極めて個人的なものに留めていました。こんな永劫な時間と広大な空間にひろがるいのちの世界があるなんて思ってもみませんでした。それは宮城先生や表紙の言葉等、「教え」というものに触れない限り、決して私の中から生まれてくる感覚ではありません。

■願わくは、私は単に、二〇〇〇年の日付を生きているようなちっぽけな存在じゃなく、表紙の言葉の如く

「延々として続いてきたいのち」

そして

「この地球の上であらゆる生きものとつながっているいのち」

を生きているこの「私」を大切におし頂きたいと思います。

編集後記

▼西暦というのはキリストの誕生の年(実は生後四年目)を元年として数える年代の数え方だそうです。仏暦でいうと今年は二五三一年になります。やはり、仏教徒の私はどうせなら「仏暦の方がいいな」とつぶやいてしまうのですが、昨年の八月二八日の同朋会(正信偈に学んでいます)でこんな大切な言葉に触れることが出来ました。ここで紹介させて頂きます。

仏法というのは釈尊の(お釈迦さま)誕生から始まる仏教ではなく、釈尊を、仏教をこの世に生み出してくるような釈尊以前のいのちの根源力(本願力)をいう

『正信偈響流』児玉暁洋著より


▼浄願寺通信一覧に戻る
<<前のページ | 次のページ>>