おかあちゃんが
きをつけてねといった
ぼくは はい いってきますといった
おかあちゃんのこえが ついてきた
がっこうまでついてきた
あかぎかずお(小学一年生)
「ごえんさん、仏さんってお参りしたら、何くれはんのん?」
▼先日の日曜学校で、あるひとりの子がこんなふうに言ったのですが、何気ないこの素朴な問いかけは、無病息災、商売繁盛等、何かを期待する日本人の宗教感覚をもろに言い当てているように思います。それに対して、あらためて聞き直したい言葉があります。
念仏は請求書ではなく、領収書である。
米澤英雄
▼以前、東井義雄先生が、講義の中で、このような小学生の作文を紹介されました。
庭の柿の木の柿が、とってもおいしそうに色づいてきました。おいしそうにうれたのをおばあちゃんにとってあげようと思って柿の木にのぼりました。よくうれたのをとってあげようと思って竹ざおをつきだそうとしたときに、「よし子、おちんように気いつけてよ。あぶないで」と、おばあちゃんの声がしてきました。下をみると、おばあちゃんが、心配そうにわたしを見上げておられました。おばあちゃんのことを思ってあげているつもりでいたら、おばあちゃんに思われてしまっていました。
『家にこころの灯を』東井義雄 於名古屋別院暁天講座より
▼相手を思う私が実は、相手から思われていたという、請求書から領収書への転換です。考えてみると、私たちは、お参りの時に限らず、日々、相手に対して請求書ばかり発行しているのではないでしょうか。してやったことばかりを自負し、してもらったことには極めて鈍感な私もまた、今日まで、よし子ちゃんの出会ったような世界をどれほど忘失してきたことだろうか…。
▼あるお弟子さんが法然上人にこのような質問をされたそうです。
念仏は、心の中でさえ称えていれば良いのですか、それとも、大きな声の方が良いのですか。
それに対して、法然上人はこのように答えられました。
「わが耳に聞こゆるほどに」
▼心の中でさえ、あるいは、大きな声の方がという、これらは結局、どちらも自己主張でしかなく、請求書です。法然上人は、よし子ちゃんの作文や表紙の詩のような、この私を呼び続ける声を聞けということを
「わが耳に聞こゆるほどに」
という言葉で、表現されているのではないでしょうか。やはり領収書です。東本願寺の参拝接待所には、
亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている。
とあります。その呼びかけは「亡き人から」、にいたるまで、あらゆる方々(諸仏)からの声なのでしょう。
▼最近特に、どこの法座に参っても、念仏の声が聞こえなくなりました。少し前までは、口を開けば
「ナンマンダブツ」
と称えていたお年寄りが、もっとたくさん居られたように思うのです。今、心して、法然上人の「わが耳に聞こゆるほどに」という言葉を頂き直したいと思います。その時、一人ひとりの声がおのずと響きとなるのでしょう。
▼米澤英雄先生の言葉をもうひとつ紹介します。
自分だけが我慢していると思っていて
相手から我慢されているということが
わからないのです
どうしても、自分中心の根性でしかない私がここに生きる限り、
相手から我慢されている
のは絶対の事実であるのに、いつも許す側に立って、やはり、
我慢している
という請求書の発行ばかりです…。