只もらい
魚買うた リンゴ買うた
その金
自分の仲間の人間に
払ったが
魚に リンゴに
金払った人間は誰もおらん
『念仏詩集 骨道を行く』浅田正作著より
■「○○駅と○○駅の区間で起きた人身事故のため、電車が遅れて申し訳ございません。」
このような車内アナウンスに、何人もがイライラと時計を見つめ、中には舌打ちする者もいると聞きます。確かに、時間厳守の用事に追われている時なら、私もきっと、そうなってしまうと思いますが、でもやっぱり、そこに「人」がいるのだろうかと問わずにはいられません。
■以前、TBSラジオ「永六輔その新世界」で、永六輔さんがびっくりしながら、このような手紙を紹介されました。
ある小学校で母親が申し入れをしました。給食の時間に、うちの子には「いただきます」と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないかと。
番組には数十通の反響が あり、多くは申し入れに否定的だったそうですが、一方、母親のような考え方は必ずしも珍しくないことを示す経験談もありました。
食堂で「いただきます」「ごちそうさま」と言ったら、隣のおばさんに「何で…?お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ」と言われたと。
■これを聞いて思い出すのは、あるレストランで貼られていた次のような内容のポスターです。
お礼状
平素皆様のご愛顧のおかげで、当店も年間6千頭の牛を消費するまでになりました。誠にありがとうございます。
■これらのことから、よくよく考えなければならないこと、それは、私たちは、皆「お客様」になってしまったということです。
■表紙の言葉の如く、経済第一主義で動く日本の社会において、電車賃を払う「お客様」は「申し訳ございません」と謝られ、年間6千頭の牛を消費する「お客様」はお礼を言われるのです。こんな奇妙な世の中にあって、「給食費をちゃんと払っているんだから」との主張も何ら特別なことではなく、「お客様」である私たち一人ひとりの中にも、同質のものが間違いなくあると思います。
■さらに、
お客様は神様です。
とまで奉られる私たちは、どこまで思い上がるつもりだろうか…。
■「無慙愧」は名づけて「人」とせず(真宗聖典257頁)
という親鸞聖人の言葉から、今、羞恥なき驕慢な「お客様」から、「人」に立ち帰ることが切に願われているのではないでしょうか。それは、罪深く、悪重き自覚の回復です。
罪悪深重
私は今日まで
海の 大地の
無数の生き物を食べてきた私の罪深さは底知れず
榎本栄一
▼今回のような給食費云々の話になると、多くの人が否定的になるのですが、どうでしょう、レストラン、それに温泉旅行などの外食の時に、「いただきます」と手を合わせる人はほとんど居ません。やはり、世の中「お客様」ばっかりです。あるご門徒さんからこんな言葉を聞かせていただきました。
「わしの親はなあ、箸箱をいつもお内仏(仏壇)の引き出しに入れよったもんや。そこまでして、手を合わせてくれという親の心やな。」
▼どこに居ても「いただきます」と手を合わせる「人」であれと、願われているのは「景気回復」よりも「人間回復」です。