ああ
ああ と言う声は
言葉にあらわせぬ感動
ああ と言う世界が
開かれて見ると
生れる前から
ああ だった
ああ と言える人生の
素晴らしさよ
ああ。
『念仏詩集 骨道を行く』浅田正作著より
■「今を大切に」…、こういう類の言葉をよくよく耳にも口にもするのですが、それなら、この「今」とは、どのように受け止めればよいのでしょうか。
■以前、中日新聞にこのような言葉が書かれていました。
私たち現代人は、時計の奴隷になっている
■考えてみると、あらゆる生き物の中で、時計の時を生きているのは他でもない人間だけです。そんな私たちは、どうしてもこの「今」を考える場合、何時何分何秒というような瞬間的な時としてとらえてしまうのではないでしょうか。
■次のような文章があります。
あるとき、親鸞聖人が門弟の方々と、お茶などを飲みながら談笑しておられたのでしょう。聖人がそのご 門弟方を見まわしてお尋ねになりました。
「あなたたちは、夜が明けたからお日さまが出るのか、お日さまが出たから夜が明けるのか、どちらだと思う」
ご門弟方は、お互いに顔を見合わせて相談し、うなずきあいながら答えました。
「それはやはり、夜が明けたから、お日さまが出てこられたのです」
「いやいやそうではない」
と聖人は首をふられ、
「お日さまが出てくださったから、夜が明けたのです」
とさとされたというのです。
夜が明けたからお日さまが出てくださったのだという受けとめは、すべて当然のこと、時間がきたから夜が明け、お日さまが出てこられたのだという受けとめであり、そこには何の感激・感動もありません。
『和讃に学ぶ 正像末和讃』宮城豆頁(みやぎしずか)著
■「夜が明けたから、お日さまが出てこられたのです」というのは、そこにあるように、「時間がきたから」であり、それは時計の時でしかありません。親鸞聖人がそうではなく、「お日さまが出てくださったから、夜が明けたのです」と言われるその時には必ず「感激・感動」があるのです。
■浅田正作さんは、その時を「ああ」と詩っておられます。(表紙参照)
■これらのことから「今」とは決して何時何分何秒というような瞬間的な時ではないことが教えられ、さらには、「ああ」と言えるような「今」をあなたは本当に生きたことがありますか…
という、そんな問いかけとして聞こえてきます。
金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
『高僧和讃』真宗聖典496頁
と親鸞聖人が和讃されるように、「ああ」と言えるような「今」が待たれている私です。
1、三帰依文の「人身受け難し、いますでに受く」「仏法聞き難し、いますでに聞く」「我いま見聞し受持することを得たり」と三箇所も出てくるこの「いま」も、「ああ と言う世界が開かれて見る」「感激・感動」の「いま」なのでしょう。それこそ「生れる前から」待たれていた「いま」なのです。
2、一九二二(大正十一)年三月三日、差別の現実から立ちあがられた全国水平社創立から、今年は九十周年になります。住職記の中の、親鸞聖人の「お日さまが出てくださったから、夜が明けたのです」から、あらためて思い出されるのは、全国水平社創立趣意書の表紙と結びの言葉です。
芽から花を出し
大空から
日輪を出す
歓喜よ
全国内の因襲的階級制の受難者よ。寄って来い
夜明けの洗礼を受けるのだ。
よき日の晨朝礼讚を勤行するのだ。起きて見ろ
夜明けだ。
3、何時何分何秒というような瞬間的な時として「今」をとらえてしまうそのような者に対して、オススメの絵本があります。『サバンナのとけい』青山邦彦作。ぜひご一読を。浄願寺にありますのでお貸し致します。