テーマ 「聞く」ということは(118座)

2013(平成25)年10月1日


表紙

親鸞 あなたは聞くことで語る人でした。
風や雨の音に、ふりしきる雪に、
父や母の声を聞き、愛する人の声を聞き、
師と友の声を聞いた人。
大地や海の響きに、
そこに生きる人びとの沈黙の声を聞き、
みほとけの呼び声を聞いた人。
人間の悲しさと、愚かさと、みにくさから眼をそらさず、
それゆえに大きな恥じらいとともに
深い喜びに満たされた人親鸞。
あなたは 親鸞聖人、御開山(ごかいさん)、宗祖(しゆうそ)、しんらんさま、親鸞、
そのように親しみをこめて呼ばれてきました。
その名を口ずさむ時、私は一人ではありません。

「親鸞の歌が聞こえる」戸次公正『生きる 存明寺御遠忌記念誌』より

住職記

■幼い時に重い熱病にかかり見る(眼)、聞く(耳)、話す(口)の力を失ったヘレン・ケラーさんにインタビューしたそうです。もし、3つの中からどれか1つが戻るのなら、何を選びますか?と。普通、私たちなら、眼を選ぶと思います。私もやっぱりそうです。しかし、ヘレン・ケラーさんは「耳」ですと答えられました。なぜなら「心に光が入るのは耳からです」と話されたのです。
■最近「開き具合」という大変心に残る言葉に出会いました。それは次の文章の中にありました。

 著者の子安さんの人柄を示すエピソードをはじめに紹介しておこう。(中略)子安さんが姪御さんに一冊の絵本をプレゼントとしてあげた。姪御さんは喜ん で「読んで」とせがむし、友 人のA子ちゃんも横に並んでいる。さて、子安さんが読みすすんでゆくと、A子ちゃんは「そんなの知ってる」とか、「次は……となるでしょう」などと言う。子安さんは「イヤな子」と内心思いつつ読み切ってしまうと、案に相異して、A子ちゃんが、「おばちゃん、もう一度読んで」と言う。不思議に思いつつ読みかけると、A子ちゃんが「今度は、私に読んで」と言ったので、子安さんは愕然としたと言う。
 子安さんは反省して、姪とA子ちゃんの二人が居るのに、自分は何となく姪にプレゼントに持ってきたという気があって、無意識的にも、姪の方に語りかけるつもりで読んでいたのだろう。それをA子ちゃんは感じとっていたので、前述のような行為をしたのだろう。やっぱり、子どもは素晴らしいし、悔ってはならない、と言われる。
 この話を聞きながら、筆者はこのような話をされる子安さんを素晴らしいと感じていた。子安さんが二人いる子どものうち姪の方に何となく心を向けていた。このことはほとんどの大人が無意識にやってしまうことである。素晴らしいのは、A子ちゃんが再読を要求し、「今度は、私に読んで」と言ったことである。このようなことが可能であるためには、大人の心が「開いて」いないと駄目なのである。子どもたちは、大人の心の「開き具合」に極めて敏感である。A子ちゃんは、子安さんという人の心の開きを感じて発言したし、また、子安さんはその発信をピタリと受けとめたのである。
『モモを読む』子安美知子著「解説」河合隼雄著より
■蓮如上人は「物をいえ」と仰るように、繰り返し語ることを勧められました。考えてみると、蓮如上人ほど、先の「開き具合」にすぐれた人はいなかったように思うのです。A子ちゃんから気づかされるような一人ひとりのことを大切にされながら、そのやわらかさでもってその人の言葉をじっと聞いておられたのだと思います。ヘレン・ケラーさんと同じく「聞く」ということの大事さが教えられます。
■さらに、表紙の言葉と重ねながら、今、このように思っています。「聞く」ということは、単に音声を聞くのではなく、また話の内容を聞くという次元のことでもありません。文中に親鸞聖人のことを「風」「雨」「雪」「父」「母」「愛する人」「師」「友」「大地」「海」「そこに生きる人びと」「みほとけ」の呼び声を聞いた人と書かれているように、「聞く」ということは、その存在の前に身を据えるということだと思います。

図書紹介

「小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした」で始まる『モモ』(ミヒャエル・エンデ著)を子安美知子さんが読み解くおすすめの本です。

編集後記

▼今、思い出すことは松本梶丸さんにも、同じような「開き具合」を強く感じたことです。著作である『生命の大地に根を下ろし〜親鸞の声を聞いた人たち〜」の如く、門徒さん一人ひとりの言葉を聞きつつ、その存在に身を据えておられる姿が浮かんできます。
▼この度、私自身がつくづく知らされた思いです。それは「開き具合」どころか、固く閉ざされた心でもって、日々、判断(眼)と主張(口)を繰り返し、それを絶対とする無明なる私自身の在り方です。それに私の場合、その方の言葉を聞いている最中に、「私は聞いている」という心が頭をもたげてくるのです。それは自己主張という「聞くまね」でしかありません…。
▼ただ、今回、色んな人から教えられる「聞く」ということは、そのような次元の話ではないのですよね。繰り返します。「聞く」ということは、その存在の前に身を据えるということだと思います。


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