テーマ 愛の中にある差別(134座)

2015(平成27)年5月1日


表紙

明治44年(1911)年9月、女性解放運動の願いのもと、創刊された『青鞜』(せいとう)。上は、高村(長沼)智恵子によって描かれた創刊号の表紙絵。

僕等 

僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌(こんとん)としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に価値を失ふ
僕等にとつては凡てが絶対だ
そこには世にいふ男女の戦がない
信仰と敬虔(けいけん)と恋愛と自由とがある

(中略)

僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる
僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる
自分を恃(たの)むやうにあなたをたのむ
自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事だとおもつてゐる
僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ 安心してゐる

(中略)

あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ

『智恵子抄』高村光太郎著より

住職記

■智恵子への情熱的な愛を綴った『智恵子抄』(高村光太郎著)はあまりに有名ですが、以前、この二人の愛について書かれた『高村光太郎のフェミニズム』(駒尺喜美著)という本に出会い深く感銘を受けました。

■フェミニズムとは女性解放運動であり、その精神でもって智恵子と結婚された高村光太郎を、駒尺喜美さんは

 一人の人間として、一人の同士として、相対することのできる男

という表現で賞賛しておられます。

■詩の如く、高村光太郎は情熱的な愛を智恵子に注ぎ、本当に大切にするのですが、二人の生活は平坦なものではなく、智恵子は精神の乱調、そして自殺未遂にまで至ることになります。それは一体なぜなのか、駒尺喜美さんはその原因を次のように書いておられます。

 人間は毎日毎日、食べて眠らなければならない。その人間が生きてゆく上で、絶対に欠かせない日常生活上の仕事、つまり〈家事〉であるが、それは通常〈主婦〉がやっている。だが、わたしは〈家事〉ほど残酷な仕事はないと思う。賃金労働からしめ出され、三百六十五日休みなしのこんな残酷な仕事はない。

(中略)

智恵子は光太郎を愛しているゆえに、家事を引き受けた。しかし、ではなぜ、光太郎は、智恵子を愛しているゆえに、家事をひきうけなかったのだろうか。そこには愛というものにも、男と女の関係構造が、世間の習俗が、はっきり入りこんでいることが分かる。光太郎も智恵子もそこまては見抜けなかった。

■一人の人間として、一人の同士として、こんなに愛し合う二人の中にも、男と女の関係構造が、世間の習俗が、はっきり入りこんでいるのだと教えられます。ここでは「家事は女がするもの」の一言です。そして智恵子は衰弱していくのです。さらに次のように書いておられます。

 人間の関係は何と悲しいものであろうか。平等の関係でないところにも、〈愛〉は常に存在する。主人と家来の間でも、領主と奴隷の間でも、本当に愛し合うことはある。あるどころか、ゴロゴロしているといってよい。だからこそ、人間に救いがあるというべきか、だからこそ救いはないというべきか、わたしには分からない。だが、ただ一つ確かに言えることは、どのように愛し合っても、社会の構造、二人の関係構造の刻印は、どこまでもつきまとっていることである。智恵子は、やはり〈女役〉の愛を示すしかなかった。光太郎もまた、〈男役〉の愛をもつしかなかった。

■悲しいかな、人間には愛の中においてさえ、相手を抑圧し、差別していくことがあります…。世間の習俗に埋没し、それどころかそのことをよしとし、一向に問うことのない者たちが実は、男女差別をはじめあらゆる差別を生み出す張本人なのだと思います。

■ここで一瞬思ってしまうかもしれませんが、決して駒尺喜美さんは賞賛していたはずの高村光太郎を結局は避難しているわけではありません。駒尺喜美さんはこのように仰っているのです。

 光太郎を賞讃の眼で見るがゆえに、女として本当のことを言わなければならない。それが秀れたるフェミニスト、高村光太郎に対するわたしの礼儀である。

と。どうでしょう、私はここに駒尺喜美さんの高村光太郎に対しての賞賛以上の信頼を感じるのです。そして最後に、表紙の詩に対しての文章を引用致します。
 
 二人が一つに溶け合って、そこに「すべての差別見」が無くなった状態、その状態そのものは真実であろう。しかしよくよく読むと、それはあくまでも、光太郎が主体であり、智恵子はその光太郎の主体に吸収される形で、とけ合っていることが分かる。「僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる」とはいうが、あなたの痛さが僕の痛さ、とはいわない。「自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事」とはいうが、その逆の発想は皆無である。「あなたは僕に生きる」が、僕はあなたに生きはしないのである。

■親鸞聖人は

 聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし
『歎異抄』(真宗聖典640頁)

という言葉で人間の愛の限界とそのことを深く悲しむ

浄土の慈悲

を教えられます。人間同士がお互い見つめ合う愛においては結局、差別構造に陥り、それは支配、被支配の関係でしかないのです。

 愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ。
『人間の土地』サン・テグジュペリ著
      
■竹中智秀先生もよく、大切なのはお互いに同じ方向を持った「仏との三角関係」であると言われました。今、切に願われていることは、お内仏(仏壇)中心の生活の回復ではないでしょうか。

編集添記

「ねえ ムーミン こっち向いて」でおなじみのアニメ『ムーミン』の最後よくあるシーンは、ムーミンとムーミンパパがお互い夕陽に向かって会話をします。
それがまたなんともいい感じなのです。
親子であってもやはり、一人の人間として、一人の同士として、同じ方向を向いて生きることの大切さを教えているようです。
夕陽…、まさに親鸞聖人の
「人ありて西に向かいて行かんと欲するに」の言葉です。
『教行信証』(真宗聖典219頁)


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