テーマ 田の字の家 2(160座)

2017(平成29)年7月1日


表紙

▼ここ数ヶ月、色々な場で「是旃陀羅(ぜせんだら)」問題について話し合う貴重な時間をいただきました。あらためて真宗大谷派としての今後の取り組みについて、ここに掲載させていただきます。(住職)

宗門の今後の取り組みへの提言

その提言は、以下の四点にまとめることができる。

(1)私たちは、「是旃陀羅」問題と真宗の関わりの歴史を直視し、その罪責に向き合っていかなければならない。

(2)『観経』における「是旃陀羅」問題についての学びを進めるとともに、そのことを通して『観経』をあらためて受け止め直していかなければならない。

(3)同朋会運動推進において掲げられている「人(にん)の誕生」と「場の創造」は、差別問題への取り組みと別にあってはならない。僧侶・門徒における「是旃陀羅」問題に関する学びを具体的に進めていかなければならない。

(4)観経の読誦について「痛みを感じる」という声を真摯に受け止め、読誦の問題についても検討しなければならない。
『真宗』東本願寺発行 2017年3月号 62頁〜63頁

住職記

■159座で田の字の家は仏さまの家であるということを書かせていただきましたが、この家は人が出入りする玄関とは別に、お経が出入りする玄関があるのです。そのことは、竹中智秀先生が善導大師が書かれた浄土真宗の儀式の源流である『法事讃』を通して、このように仰っています。

私の子どもの頃、門徒の家で「三部経」が読まれる大きな法事があるという時には、前日の夜、その家の主人が上下(かみしも)を着けて正装して、経を迎えに来ていました。その時には、寺の玄関でも、お経が出入りする玄関があるというのです。父はそういって、そこから経を渡していました。
『浄土真宗の儀式の源流 法事讃を読む』竹中智秀講述

■寺の玄関でも、門徒の家でもお経が出入りする玄関があるのです。(写真下)


真宗門徒の家は、今のような快適空間の我が家ではなく、そこに念仏道場として仏法聴聞の場が開かれていたのです。また、竹中智秀先生が同じ本の中で、このように仰っています。

この『法事讃」の始めにも、施主が中心になって道場を用意するということが記されています。道場を用意して、そこに阿弥陀如来を安置して、そして多くの人たちに声をかけて招いて、別時念仏をそこで行ったということです。その時に、召請人(しょうしょうにん)と和讃人(わさんにん)が出てきます。この召請人は、この法事の施主に招かれ、別時念仏という法事を執行する大事な役を果たす僧になります。和讃人は、召請人の助音をしていく人です。

■先ず執行する召請人の、「先請弥陀入道場」から始まり『正信偈』の「帰命無量寿如来」の後、「南無不可思議光」からは助音である和讃人と皆でお勤めするその源流がここに書かれている通りです。浄土真宗の儀式の源流です。この日だけは召請人もお経の玄関から入るのですが、その際、本来はお経の玄関の横に安置されている手水鉢(ちょうずばち)で身を清めてから、座敷に入ります。(写真下)


そしてそこでお茶が出されるのもお勤めの前に口をすすぎ清めるためだといわれます。この日はこの手でお経に触れる召請人として、間違っても線香、蝋燭という流れ作業にならないようにお給仕は道場の施主にお願いするわけです。座布団が2枚置かれているのもお内仏(仏壇)の前に座るまではお経以外他のものに触れないためです。

■また、湖北では最近まで嫁入り道具として、召請人(一般的にごえんさん用と言われます)の座布団と和讃人(一般的にはお客さん用と言われます)の座布団を夏用と冬用を持ってこられたようです。それは、何々家に嫁ぐというよりも、仏さまの家に嫁ぐということを表現しているのだと思います。

■そもそも、親鸞聖人が次のように書かれています。

もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなわちよく生まれて如来の家に在らん。
『教行信証』(真宗聖典231頁)

■私たちの先達が親鸞聖人の言われる「如来の家」を建て、様々な儀式作法を実践し、「仏の功徳を勤修」してきたことは大いなる財産であり、時代とともにそれが失われていくことはあまりに悲しいことであります。やはり、どんなに生活様式が変わっても、善導大師から親鸞聖人をはじめ、先達が大切にされてきたその精神を次の子や孫に相続していかなければならないと強く思います。

編集後記

▼「是旃陀羅」問題について話し合う中で様々な場面に出会いました。

差別問題に怠ってきた自分に対して号泣されたご年配の住職の姿、
「是旃陀羅」を読誦するたびに心が揺らぐと仰った女性の寺族の方、
最後に全国水平社の「宣言」を皆で朗読しょうと言ってくださったご門徒の方等……、

まさに貴重な時間をいただきました。表紙の宗門の取り組みは、そのまま私の取り組みであると思っています。

▼竹中先生の言われる経を迎えに来られるのは、長浜教区においてはまだ残っているお寺はあるようです。以前は法衣も迎えに来られたようです。それは『仏説無量寿経』(真宗聖典22頁)の中に「応法の妙服のごとく」とあり、そのことを宮城先生は次のように教えてくださいます。

応法の妙服であります衣の徳によって、仏事を荘厳する姿なのです。そこでは経典が読誦されるのですが、それはそのまま、仏言のひびきに和するのであり、そのときそこに仏が今現在説法したもうのです。そのように仏事に加わる資格がその僧の人格にあるのではなく、僧が着ている法衣にその徳があるのです。『真宗の本尊』宮城黔著

▼決して「お経を法衣を取りに来い」あるいは「線香、蝋燭はたのむ」と威張って言っているのではないのです。(笑)日ごろから僧侶が威張っているとそのようにしか取れないですよね。やはりそこに、日ごろの僧侶の生活態度が問われているようです…。


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