ずいぶん前ですが、
みのもんたさんが司会をされていたクイズ番組
『クイズ $ ミリオネア』からの問題です。
こたえは次頁「住職記」にあります。
「南無阿弥陀仏」の、言葉の正しい切れ目はどれ?
A、 南・無阿弥陀仏
B、 南無・阿弥陀仏
C、 南無阿弥・陀仏
D、 南無阿弥陀・仏
放送日 2004年1月4日 TRIAL 150万円
回答者 九重親方(元千代の富士関)
今年の4月1日付けで、長浜教区第16組の組長(そちょう)を拝命し、今回新しく、「2017年度 教化方針の主旨ならびに願い」(下参照)を書かせていただき、8月26日、定期組会・門徒会総会(合同会議)において承認されました。
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」『歎異抄』(真宗聖典627頁)とあるように、真宗の教えは南無阿弥陀仏に全てが込められています。それは阿弥陀仏に南無せよ、阿弥陀仏をよりどころとして生きよということです。しかしながら私たちは、阿弥陀仏よりももっと、よりどころとしているものがあるのではないでしょうか。お金、健康、名利…それはずばり、「思い通りにしたい…」というひと言に尽きるように思います。阿弥陀仏はもともと国王でした。それをすてて仏になられたのです。お釋迦さまも釋迦族の王子でした。それをすてて仏法を明らかにされたのです。「王」というのは、お金、健康、名利…といったものに満ち溢れ、「思い通り」に出来る家来に囲まれた、言わば私たちが追い求めている理想の姿です。仏はそれをすてたのです。ということは、仏とこの私たちとではまったく反対の方向を進んでいると言わねばなりません。考えてみれば現代流行りの宗教は、あなたを「王」に近づけてあげますよと囁いてくるものが大多数のように思います。それは決して仏教ではありません。しかしそれは他人事ではなく、私たちもまた念仏を頂きながらひたすら「王」を求めているのではないでしょうか…。今、あらためて「つながるいのち16組」のスローガンのもと、親鸞聖人の言われる「ただ念仏して」という南無阿弥陀仏の教えをお互いに身を引き締めてたずねてまいりたいと願います。
スローガン「つながるいのち16組」
■南無・阿弥陀仏
▼表紙のクイズの正解は、 「B」。南無・阿弥陀仏です。
▼南無するというのは、よりどころとする、手を合わす、頭が下がる、そのことを一番に願う、たのむ(憑む)と教えられます。南無阿弥陀仏とは「教化方針の主旨」(右参照)の中にある、阿弥陀仏に南無せよ、阿弥陀仏をよりどころとして生きよということです。今、あらためて、実にそれ以外のものに南無して生活している私自身を深く自覚し、身を引き締めてたずねてまいりたいと思っています。
▼ちなみに、回答者の九重親方は、考えた末に「南無阿弥・陀仏」と、ここで切る「C」と答えられました。…残念ながら、×ですよね。(笑)
▼あるいはそのほかに「南無阿弥陀・仏」で切ると思われる方も多いようです。「南無阿弥陀・仏」ここで切るのもわかるような気がします。しかし、ここで切ってしまうと「南無阿弥陀」という「仏」となってしまいます。そのような解釈です。ひらがなを入れるんだったら、「南無阿弥陀」の「仏」となってしまいます。だからここで切る限りは、外から「南無阿弥陀仏」を指さして、「南無阿弥陀」の「仏」が何処かに居るという、そういう解釈になります。
▼そうではなく、南無で切ることによって、「南無する」という、私自身というものが、この「南無阿弥陀仏」の中に含まれてくるかと思います。両者には。そこに私が在るか、無いか、という、これほど決定的な違いがあるんだと思います。だから、私を離れて、阿弥陀仏という仏が何処かに居るということではありません。やはり、「南無・阿弥陀仏」です。