弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり 真宗聖典478
弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき 浄土をねがわんひとはみな 広大会を帰命せよ 真宗聖典480
若不生者のちかいゆえ まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ 真宗聖典481
仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん 信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし 真宗聖典483
真実信心うるひとは すなわち定聚のかずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ 真宗聖典484
信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり 真宗聖典487
天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり 真宗聖典488
念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり 大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし 真宗聖典489
本師龍樹菩薩の おしえをつたえきかんひと 本願こころにかけしめて つねに弥陀を称すべし 真宗聖典490
尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ 真宗聖典493
助正ならべて修するをば すなわち雑修となづけたり 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし 真宗聖典495
真心徹到するひとは 金剛心なりければ 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまえり 真宗聖典496
専修のひとをほむるには 千無一失とおしえたり 雑修のひとをきらうには 万不一生とのべたまう 真宗聖典497
弥陀の報土をねがうひと 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ 真宗聖典498
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり 真宗聖典500
五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそいて 念仏信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり 真宗聖典501
菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあたをなす 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きわもなし 真宗聖典501
度衆生心ということは 弥陀智願の回向なり 回向の信楽うるひとは 大般涅槃をさとるなり 真宗聖典502
如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 自力の回向をすてはてて 利益有情はきわもなし 真宗聖典502
弥陀の尊号となえつつ 信楽まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり 真宗聖典503
仏智不思議を信ずれば 正定聚にこそ住しけれ 化生のひとは智慧すぐれ 無上覚をぞさとりける 真宗聖典504
弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし 真宗聖典505
聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり 真宗聖典505
自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがうつみのふかきゆえ 七宝の獄にぞいましむる 真宗聖典506
信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし 真宗聖典506
他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし 真宗聖典508
この世の仏法のひとはみな 守屋がことばをもととして ほとけともうすをたのみにて 僧ぞ法師はいやしめり 真宗聖典510
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり 真宗聖典511
■釋尊が地位と富の一切を振り切って出家したのは、その幸福が死を前にしてすべてが消えていくことに目覚めたからです。だからこそ、常に死が、私たちに幸福より以上の道を求めさせるのではないでしょうか。
■親鸞聖人は、誰もが幸福ぐらいで埋まるはずのない人生を、もっと確かに生きたいと切実に願う「ひと」であると頂かれています。そしてその「ひと」を何度も敬いの心で和讃されています(表紙参照)。
■また、ロシアの監獄の中の労働について記された次のような文章があります。
もっとも凶悪(きょうあく)な犯人でもふるえあがり、それを聞いただけでぞっとするような、おそろしい刑罰を加えて、二度と立ち上がれぬようにおしつぶしてやろうと思ったら、労働を徹底的に無益で無意味なものにしさえすれば、それでよい。(中略)たとえば、水を一つの桶から他の桶へ移し、またそれをもとの桶にもどすとか、砂を搗(つ)くとか、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、またそれをもとへもどすとかいう作業をさせたら、囚人はおそらく、四、五日もしたら首をくくってしまうか、あるいはたとい死んでも、こんな屈辱苦しみからのがれたほうがましだなどと考えて、やけになって悪事の限りを尽すかもしれない。
『死の家の記録』ドストエフスキー著
■やはり、時と場所を問わず「ひと」は無意味さや空過には耐えられない存在であることが教えられます。
■釋尊が説かれたお経は、どこまでもその「ひと」の奥底に流れる…道を求める心(求道心)に応えられたのです。先達はそれを「赤本」と呼び大切にしてこられました。その元となるのが了顕さんの物語です(▼右下リンク)。まさに「赤本」は血の通った「ひと」の幸福より以上の道を求めて止まない叫びそのものだと思います。
▼了顕さんの物語は、1474年3月28日に起こった実話です。上の紙芝居は浄土真宗本願寺派観念寺様の住職宮本直樹様のホームページ『お寺の出前!紙芝居屋亭』から転載させていただきました『血染めのお聖教』です。(直接お電話しお許しを頂いています)他にも150以上の作品がアップされています。ぜひご覧下さい。(▲右上リンク)
▼東本願寺では「赤本は地べたに置かないように」の言葉やお経は必ず読む前に頂戴する作法があります。これらは言うまでもなく、東本願寺の権威の言葉ではなく、釋尊は偉大なりと絶体化する作法でもありません。ひとえに「ひと」を敬っているのでしょう。