1月23日〜24日、藤田芳彦様宅にて、相撲二十二日講 (まわり仏さん)が勤まりました。
(浄願寺通信に写真を何枚か追加しました。)
一七八八年一月三十日、京都の大火により、第十九代乗如上人の時、東本願寺が焼失しました。その後、再建にあたって、国もとを離れ、お小屋(詰所)に合宿し、従事された湖北三郡のご門徒方の労苦に対して、本山より、御寿像(ごじゅぞう)と御書(ごしょ)が下附されました。これは今まで、先例もないことで、当時の代表の人々は、法義相続の願いをひとつに、乗如上人の御命日(二月二十二日)にちなみ、湖北三郡一円の二十二日講を組織されました。それ以来、毎年二十二日講の法要が勤まり、今日まで、二百年以上の歴史を重ねています。相撲町に於いても、毎年一月末頃、ご門徒の家を御宿とし、勤められています。
↑お宿の藤田芳彦様宅に提灯設置
↑お宿の藤田芳彦様宅に提灯設置(夜)
↑お内仏(仏壇)の横、床の間に左から、南無阿弥陀仏、乗如上人、教如上人の御影
↑御書拝読
↑法話 西野健太郎先生(西野 充滿寺住職)
↑仏法聴聞
↑仏法聴聞
↑会長の北川政嗣様よりお礼の言葉
↑二十二日講煎餅とお茶
二十二日講の組織は湖北一市三郡を六つの地区に分けて構成されています。
1、旧長浜町
2、旧坂田郡西部(山西)
3、旧坂田郡東部(山東)
4、旧浅井郡東部(上組)
5、伊香郡一円
6、旧浅井郡西部(下組)
毎年十二月二十六日から翌一月八日まで、二幅の御影を双懸(そうけん)して「御越年(ごおつねん)法要」が営まれ、参詣された各組の代表者がここで供えられたお鏡(二十四枚)を分けて頂いて帰り、これに餅米をつき混ぜ「鏡割り法要」を厳修し、この御座にお参りした各集落の世話方は、頂いたお鏡に更に餅米をつき混ぜて必要な量のお鏡やお華来を作り、集落毎の「御巡化(ごじゅんけ)法要」をお勤めしてお供えを各戸に配られる仕組みになっています。
「御越年法要」はこの組織の一から六の順序でお勤まりになり、その後、一から三の組織で一幅の御影が、四から六の組織であと一幅の御影が御巡在になりますが、「鏡割りお講」は各組織のそれぞれ数カ所(概ね旧村落)で、営まれ、そのあと各集落への御巡在となる訳であります。
こうして、湖北二市二郡全ての御門徒が二十二日講の御縁にお遇いすることが出来るようになっています。今日、私たちはこの勝縁に遇い、乗如上人の御苦労、我がご先祖のご苦労と喜びの姿を偲びつつ、更に二百有余年連綿と伝えられてきた法悦の歴史を感じて、掌を合わす我が身の誇りと幸せを噛みしめたいものであります。
二十二日講参考資料より
▼講師の西野健太郎先生(西野 充滿寺住職)は、
『永久(とこしえ)に伝承すべき法悦の歴史』というテーマで
形や言葉を超えた世界がある。それが二十二日講という法悦の歴史である
と今年も熱く語ったくださいました。今、連綿と伝承されてきた先人の願いはひとえに誰のためであるのか、やはりその一点が問われています。(文責澤面)
▼また、真宗寺院のはじまりを示す仲野良俊先生の文章を紹介してくださいました。最後に掲載させて頂きます。
「ひとつの里に念仏の教えが聞こえてきた。そして、それまで仏法からはじかれていた民衆一人ひとりに、自ら歩むことのできる仏道がはじめて開かれた。その時、民衆は感激しただろう。嬉しかっただろう…。そして、その時思ったはずだ。この大切な教えをひとりで聞くのはもったいない。ひとりでも多くの人と一緒に聞いていきたい。そこにご本尊を迎え、念仏の道場ができてきた。そしてそこに留守番をしてご本尊のお給仕をする人が必要になった。多くの人は食べていくのに精一杯で、そこに住んでご本尊のお給仕をしている暇がない。そこで、里の中のひとりの人を選んでそのことを託した。あなたはここに住んでください。あなたの生活は私たちが守る。だからあなたは、ここでご本尊のお給仕をして、仏法の勉強をしてほしい。そして、その学んだことを私たちに伝えてほしい。これが真宗寺院のはじまりだったんだ。」
※法要日程表は佐藤義成様(湯次 満徳寺住職)から頂きました。
※写真は藤田清和様から頂きました。
※今年度の浄願寺門徒総代名の報告は3月号に記載させて頂きます。