テーマ 「是旃陀羅」(ぜせんだら)問題について〓(182座)

2019(令和元)年5月1日


表紙

2017(平成29)年5月1日
部落解放同盟広島県連合会御尊内
小森龍邦先生
岡田英治先生
真宗大谷派浄願寺住職 澤面宣了

 先日の3月12日(日)、滋賀県の長浜教務所に於いての解放運動特別指定伝道研修会(解放特伝)には両先生から貴重なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。東本願寺発行の機関紙『真宗』3月号での「是旃陀羅」に関する報告書も読み、このことは大谷派宗門にとって、また何より親鸞聖人の教えを聞く私自身にとって最も大切な課題であると痛感した次第です。
 私は長浜教務所近辺の浄願寺という親鸞聖人のお寺をお給仕させていただいている住職です。そこで最も重視すべきこの課題を浄願寺のご門徒さんをはじめ、出来るだけたくさんの人と課題を共有したく思い、浄願寺の新聞に「旃陀羅(せんだら)は救われていない」というテーマで書かせていただき、誠に勝手ながら、両先生のお名前(失礼ながら、さん付けで)、引用文も記載させていただきました。そこで両先生にはどうかご了解いただきたく、新聞を同封させていただいた次第です。(誠に不十分な内容で申し訳ございません)
 ただこれを機に、色んな場所で、研修、話し合いをさせていただいています。一生の課題を賜り、本当にありがとうございました。これからもご指導のほど、どうか宜しくお願い致します。
 なお、ホームページの「浄願寺通信」にも公開させていただいています。過去に、差別問題については何度も触れています。よろしければそちらもご覧くださいませ。
合掌

住職記

■報告書
 
 何度も繰り返しになりますが、小森龍邦氏の『観無量寿経』の「是旃陀羅」の教説部分は、被差別者にとってはやりきれないほど、心に痛みを感じるところである。『親鸞思想に魅せられて』をはじめ、部落解放同盟広島県連合会の「是旃陀羅」に関する問題提起に対して、2017(平成29)年3月号、宗門の「部落差別問題等に関する教学委員会 報告書」(まとめられたのは前年6月)が『真宗』に掲載されました。

■そのまま

 仏教界、そして大谷派教学も「是旃陀羅」に対する誤った解釈・解説を繰り返し、それによってこのような痛ましい差別の歴史を作り出してきました。そのことはずっと以前から問われ続けてきたことなのです。そこにあるように、私たちは先ずこの告発の声を真摯に受け止めるところから出発しなければならないと私も強く思います。そして2年以上の歳月が過ぎた今、「是旃陀羅」問題に対して痛感する言葉は、ずばり「そのまま」です。私たち宗門は依然として「そのまま」の状態ではないでしょうか。

■差別法名から

 今一度、「法名、釋尼栴陀(しゃくにせんだ)」の差別法名(下写真参照)から考えたいと思います。昭和五十八年、鹿児島別院保管の過去帳から差別法名が発見されました。、昭和20年12月31日に亡くなった7才の女の児につけられたものです。また、位牌もご遺族のお仏壇に安置されてありました。


■今後の取り組み

 今後、宗門がどのように取り組んでいくべきなのか、そのことが記されたのが次の文章です。
 
 差別記載がある場合、それは教団の覆うべくもない歴史であるから、抹消したり書き換えたりすることなく、そのままにしておいた方がいいという意見があります。これは、差別の歴史を包みかくすのでなく、むしろ常に見つめつづけねばならぬという真面目な姿勢の中から出てくる意見であります。しかし、差別のおそろしさを考えれば妥当な意見というわけにはまいりませんし、たぶんその記載が何らかの形で外に漏れたり影響を与えたとしても、そのことによって傷つけられたり不利益をこうむらない立場にある人の意見であろうと思います。たとえ住職が自らの寺の歩みとしてそれを消し去ることなく見つめ、差別を担っていくエネルギーにしたいと思われるにせよ、それがどんな形でも外に漏れていかないとはいい切れません。差別法名や旧身分記載、死因等の人権を冒す可能性をもつものについては、書き改めていただくよう調査の結果をまってお願いする所存であります。しかしそれは、過去帳そのものをすべて消却してしまったり、たとえば墓石の刻字を削り取ったり、土中に埋めてしまったりするつもりである、ということではありません。差別法名であれば、与えられた法名が人間のいのちを踏みにじる意味をもっていようとは本人も知らなかったでありましょうし、ご遺族の方も、そうと知らずに手を合わせてこられたことでありましょう。「釋尼栴陀」と名づけられた七才の女の子のいのちを思えば、そのままに置いておくわけにはまいりません。
『真宗』1983(昭和58)年7月号

■そのままにできない

 「抹消したり書き換えたりすることなく、そのままにしておいた方がいいという意見」とありますが、同じように『観無量寿経』の「是旃陀羅」をそのままにしておいた方がいいという意見があります。しかしそれも違うと思います。「被差別者にとってはやりきれないほど、心に痛みを感じる」人が現におられるのです。決してそのままにできないと思います。最後にこうあります。「ご遺族の方も、そうと知らずに手を合わせてこられたことでありましょう。「釋尼栴陀」と名づけられた七才の女の子のいのちを思えば、そのままに置いておくわけにはまいりません」。仏説と法名は違うという意見があるかもしれませんが、私は重ねて頂いています。やはり「是旃陀羅」も「そのままに置いておくわけにはまいりません」。
 
■痛くもかゆくもない

 さらにもう一つ思うことは、「そのことによって傷つけられたり不利益をこうむらない立場にある人」とは、まさしく宗門内の私たちではないでしょうか。実は、『観無量寿経』の中に「是旃陀羅」が有ろうが無かろうが痛くもかゆくもないのです。どうでしょうか、そのことが問題にもならない私たちが何よりも問題です。いつも「そのまま」を作っていくのは他ならない私たち一人ひとりなのです…。

編 集 後 記

▼一年前、脳出血で約2週間の入院、病室で浄願寺通信を書いていたことを思い出します。やはりその号も「是旃陀羅」問題についてでした。
▼大切な課題を頂いたこの2年間…、初心に戻り、両先生へのお手紙を表紙に掲載させていただきました。そして今号と来号も続けて(来号はマナケ・サンガラトナさんのお話を通して)「是旃陀羅」問題について書かせて頂きます。ぜひまた、皆さまの思いをお聞かせください。なお、「是旃陀羅」問題については過去次の浄願寺通信で触れさせて頂いています。

 2017(平成29)年4月号 (157座)
 2017(平成29)年5月号 (158座)
 2017(平成29)年7月号 (160座)
 2018(平成30)年5月号 (170座) 
 2018(平成30)年8月号 (173座)


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