毎月1日発行

テーマ 非核非戦(257座)

2025(令和7)年8月1日


 

表紙

鐘撞き体験会が開催されました。                               

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非核非戦 住職記


 

1、ちっちゃい婆

■2025年6月1日(日)浄願寺に於いて宝樹院釋尼誓受(浄願寺前々々坊守・志津枝 昭和51年3月19日還淨) の五十回忌法要が勤まりました。
■私がまだ大阪に住んでいた子どもの頃は「ちっちゃい婆」と呼んでいました。私が浄願寺に遊びに来ると「よう会えた…」と体全身で喜んでくださり、別れる時には「また会えるな…」と私の手を握り、涙をこぼしてくださいました。今もその姿は忘れることが出来ません。
■この世代同じ体験の方が多くおられると思いますが、実はちっちゃい婆は大切な一人息子(即能・前住職の章の父・昭和19年5月17日還淨)を戦争で奪われているのです。母親としてその心が無残にも引き裂かれ、これほど無念で悲しいことがあるでしょうか。ちっちゃい婆の心の中に戦争の痛みがずっと色濃くあったと思います。でもちっちゃい婆の奥底にあるその痛みから溢れ出る温かい心で、私を含め誰のことをも優しく包んでくださる仏さんのような人でした。だからこそ、ちっちゃい婆の非戦の訴えが今も確かに聞こえてまいります。

ちっちゃい婆…。
今年、五十回忌法要と戦後80年の節目を頂きました。ちっちゃい婆のように私も嫁がせて頂いたこの相撲町で、全てのいのちが求めて止まない絶対平和を心に刻み、非核非戦の大道を歩むことを誓います。                         合掌
2025年8月
浄願寺第住職

 

▲写真(撮影は浄願寺書院) 
右・前坊守 純子(大阪より) 
中央・前々々坊守 志津枝(南浜より)
左・前々坊守 操(高月より)
昭和41年 宗祖親鸞聖人七百回御遠忌法要・於浄願寺

 

2、念仏者の非核非戦

■真宗大谷派は1995年に「不戦決議」、2015年に「非戦決議」、そして2025年に「非核非戦決議」を表明しました。(※下参照)
■そこに「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則の「非核」の言葉が加わりました。人間の欲望の肥大化なる原発と核の深い闇の中で、「非核の誓い」は極めて重要なことであると思います。あらためて次の文章が思い起こされます。

日本では、「核」と「原子力」は違うものであるかの様に宣伝され、核分裂反応がはじめに原爆として利用されたことを不幸なことであったと言う人々がいます。しかし、核分裂反応はその本性からして爆弾向けなのであり、「核」の「平和利用」ならいいというのは間違った考えです。
『今私たちが知っておかなければならない、核・原子力の真実』
小出裕章氏(京都大学・原子炉実験所)

■また「不戦」から「非戦」への移行については、甚だ独断なことと思いますが、住職の頂き方をひと言だけ、次に書かせて頂きます。

■「非戦勝」という言葉はありませんが、「不戦勝」という言葉はあると思います。スポーツや武道でよく聞く「不戦勝」はその一人一人の意思よりも、それは外なる審判から組織、連盟等が決定することです。あえてその言葉から考えてみれば、大谷派教団としての意思を示すのが「不戦決議」であると思います。勿論、大谷派教団に属する私にとって「不戦」は私の意思であり、別々ではありません。今、さらにそれはどこまでも内なる一人一人の意思として、「非戦」と表明されていると感じています。非核非戦2025、私は「念仏者の非核非戦」と頂いています。

▼真宗大谷派 不戦決議1995 非戦決議2015を見る

 


▼真宗大谷派 非核非戦決議 2025を見る

 

3、全戦没者追弔法会2025

■1987年から毎年4月の春の法要の中で、東本願寺に於いて「戦没者追弔会」から「全戦没者追弔法会」と「全」と「法」の字が加えられて勤まっています。そして今年2025年は「表白(ひょうびゃく)」において次のように誓われました。

表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人ご三世十方の諸仏如来、ならびに一切衆生に申し上げます。 

(中略)

かつて私たちの宗門は、戦争とは何なのかを知ることもなく、仏の教えに背き、みずから戦争に荷担して、多くの人のいのちを奪いました。この真宗大谷派の罪をいまあらためて、御仏とすべての戦争によって奪われたいのちに懺悔いたします。

(中略)

われら真宗門徒は、ひとえに、この身とその無明の闇を照らす仏の教えにしたがい、生活の刻一刻を非戦平和の実践に尽くすことを誓います。

■全戦没者追弔法会とは、全てのいのちに思いを馳せる思いから「全」の字があり、自らの罪を深く痛み、そこに仏の声に出遇う願いから「法」の字があります。
■それは戦没者に対しての鎮魂、慰霊ではなく、また英霊として奉ることでもありません。そのような追善供養で終わらせないためにここで言葉を確かめるのなら、全戦没者追弔法会は決して「感謝」の儀式ではありません。そうではなく今年の「表白」にもある「懺悔」であり、さらに親鸞聖人から教えられる「報謝」です。 二度とこのような過ちは犯しませんとその罪に謝し、私が念仏者として生きることがそのことに報いる唯一の道だと思います。

 

共に仏弟子として歩まん 澤面宣了

■この度、京都教区長浜第16組同朋の会推進講座に於いて18名の方々が新たに推進員になられました。おめでとうございます。私もサブスタッフとして尊いご縁を頂きありがとうございました。共に仏弟子として歩んでまいりたいと思います。
■仏弟子とは親鸞聖人は「身心柔軟」(真宗聖典初版245頁・第二版278頁)と説かれています。それはずばりやわらかさです。重ねて「行人」や「行者」であると説かれ、『正信偈』の中には「行者正受金剛心」(行者、正しく金剛心を受けしめ)(真宗聖典207頁・第二版232頁)と表現されています。金剛とはこの上なく堅いということですが、しかしそれは決して凝り固まることではありません。蓮如上人の言葉「いたりてかたきは石なり。 至りてやわらかなるは水なり。水、よく石をうがつ。」(真宗聖典889頁・第二版1063頁)の如く、金剛心とは堅い石をうがつ(貫く)水のようなやわらかな心です。
■水というのは、色も形も味もありません。色は海の絶景にも見られるように、青色や赤色や灰色に転々と見事に空の色を映し出します。形も華瓶でもコップでも相手の形にぴたっとひとつになります。味もお茶でもコーヒーでもお酒でも水がそのものの味を引き出すから美味しいのであって水自体の味は主張することはありません。もしも主張すればその途端に美味しさは失われてしまいます。このように水はどこまでも相手の色や形や味に寄り添うのです。
■現代私たちは「個性を伸ばす」などの言葉に煽られて、いつしか私の色、私の形、私の味という自己主張に生きてきたのかも知れません。それはひたすら「自分の能力を磨くこと」です。あるいはまた真逆とも思われる「自分を押し殺すこと」も同じく自己主張でしかありません。
■仏弟子とはそのどちらでもない、やわらかな水のように相手に寄り添い、その色も形も味もお互いに荘厳し合う人々(サンガ)であると教えられています。

 

あとがき

▼表紙の鐘撞き体験会は、お寺への親近感を持ってもらいたいという役員さんの願いからこのように開催されました。ありがとうございました。
▼「共に仏弟子として歩まん」はつい先日長浜第16組の広報に載せて頂いた文章です。▼思いが繰り返しになりますが書かせて頂きました。またご相談させてください。

 


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