テーマ 循環彷徨(63座) 

2005(平成17)年2月1日


 

表紙

私はインドの飢餓と病に苦しむ人たちの救済援助を求めて、世界各国を回って日本を訪れましたが、日本ほど物質的にも環境的にも、あらゆる面でこれほど恵まれた豊かな国はありませんでした。しかし、その日本に住む人たちは、私が訪れたどの国の民族よりも、その表情に貧しさと暗さを感じました。
 こんなに恵まれた豊かな日本人たちの表情が、貧しく暗いのは、日本人が正しい信仰を持っていないからだと思います。
                                                  マザーテレサ

 

住職記

▼「どんなふうに生きることが、自分の人生を大切にすることか」と問われれば、多くの人が、自分の信じる通り、納得のいくように生きることだと答えると思うのです。でも、本当にそうなのでしょうか。
▼真宗大谷派の寺院では、お正月の法要を修正会(しゅしょうえ)といいます。宇宙ロケットの軌道修正のように、一年のスタートに、私の生きる方向を修正しょうということですが、やはり私の中に、修正しなければならない、ずれがあるようです。そのことを如実に教える循環彷徨という人間の性について書かれた、こんな文章があります。
 
 人間は、砂漠や雪原など、依るべきものが何もない、文字通り、目印になるものが何ひとつない、とりとめもないような広がりを歩くと、自分自身は、一生懸命に歩いているつもりでも、確か、二百メートル進む間に、五メートル程、利き腕の方向へそれていくのだそうです。つまり、右利きの人は、右へ右へと、左利きの人は、左へ左へと、それていくのです。だから、どんどん進むうちに、ぐるっと廻ってしまって、結局、もとのところへ帰ってしまうのです。もし、一切の道標がないとき、私たちの歩みも、まさに、その循環彷徨に陥ってしまう他ありません。
  『宗祖聖人・親鸞』     宮城豈頁(みやぎしづか)著より

▼この利き腕の方向へそれていくということは、自分は間違いない、大丈夫だと、信じ、納得するその得手にこそ、ずれが生じることを教えています。さらにそれが結局、もとのところへ帰ってしまうという言葉で、空しく過ぎていくこと(空過)をも教えています。自分自身は、一生懸命に歩いているつもりの人生が、気がつけば、私の人生は一体、何だったんだろうという、これほど悲しいことはありません。どうも、自分の信じる通り、納得のいくように生きることが自分の人生を大切にすることにはならないようです。そうではなく、本当に自分の人生を大切にする要は道標があるかどうかなのだと思います。そのことはすでに、マザーテレサが「信仰」という言葉で、日本に住む私たちに言われた通りです(表紙)
▼一人では限りなく、ずれていく私である故に、自分以外の声に耳を傾けながら、親鸞聖人の教えを道標に歩んでいきたいと思うばかりです。

 

編集追記

▼循環彷徨…、宮城先生はまたある法座で、続けてこのように話されています。

 循環彷徨は「敦煌」という映画にも出てきます。若い兵士が、お姫様の手を引っ張って、一生懸命、砂漠を走って逃げるのですが、気がついたら、元の所へ帰っていたという、そんなシーンがあります…。

▼どうでしょうか。例えば、親が、わが子の手を引っ張る限り、親の得手のずれによって、大切なわが子までも『空過』に巻き込むということがあると思います。繰り返しますが、大事なことは、『道標』があるかどうかなのですよね。

▼似ているけれど『道標』であって、決して『目標』ではないと思います。『目標』というのは夢に向かって、突き進むという具合に、自分が決め込んだことであるから、やっぱり、ずれていくのではないでしょうか。達成を良しとする『目標』ではなく、一歩一歩が確かな歩みになる『道標』なんだと思います。

 


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