テーマ 亡き人は仏である(59座)

2004(平成16)年6月1日


 

表紙

『お父さん、僕の死をご縁として、お父さん自身の生きることの意味を今こそ真剣に問うて下さい。そうでなかったなら、僕の死は、生きて残っているあなたたちに生かされなかったことになってしまいますね。お父さんや、お母さんたちを悲しませただけのことになってしまいますね。どうか、僕の死を無駄にしないで下さい』亡き子はこのように一番、願っていてくれるに違いない。自らの死をも懸けて生きて残る私たちに、この人生の根本問題、生きることの意味を問えと、そのことをおろそかに、日々を送ってきた私たちに、一旦、悲しみを与えて、その悲しみの中から立ち上がれと、この世でしばしの親子の縁を結んで、いそぎ成仏し、諸仏と成って、今日も、私に厳しく問いかけてくるのです。

これは、息子さんを中学一年生で亡くされた西藤勝信さんの言葉です。
『死に学ぶ生の真実』高史明著より

 

住職記

「亡き人は仏に成られたのですか…」大切な人の死に直面する際、そのような問いかけは、誰もが考えることだと思います。
この問いに答えるように、湖北では人の死を「参らせてもろた」と表現してきました。(ごえんさん、今朝早くに、おじいさんが参らせてもろた…という感じです)その内実は、亡き人は草葉の陰や冥土といった暗い死後の世界をさまよっているのではなく、浄土(仏の世界)に参る、つまり、仏に成られたと受け止めてきたようです。これは、何も湖北の方言ということではなく、法然上人の死を

「浄土にかえりたまいにき」 
「浄土に還(げん)帰(き)せしめけり」 
『高僧和讃(こうそうわさん)』(聖典499頁)

と讃(うた)われた親鸞聖人の教えが、今日までこの湖北に伝わってきたからだと思います。
それにくらべて、現代の一般的な亡き人への見方は、まるで、遺族知友が追善供養をしなければ浮かばれない存在といった感じですよね。そうである限り、私たちの方が上になっていませんか…。どうでしょう、決してそういう在り方になるのではなく、亡き人は仏であると見る眼の回復を「参らせてもろた」という言葉から、いま一度、考えたいと思います。
それなら、亡き人は仏であるということは、どこで言えるのでしょうか。親鸞聖人が言われているから、どうも、そうらしいという、そんなことではないですよね。こんな言葉を思い出します。

昨日、主人とケンカをしてしまいましたが、今朝、おつとめの後、「お母さんはお父さんばかり責めているけれど、そんなにお母さんは立派なの?」と、亡くなった子に声をかけられている気がしました。私がいつも我慢し、家族を支えている、そんなふうに高上がりしている自分の姿を、死んだ子が一つひとつ気づかせてくれます。

谷本啓子『わたしの出会った大切なひと言』より

亡き人は仏であるということは、この方のように、亡き人から一つひとつ、大切なことに気づかされていく、そんな日々の生き方において、言えるのではないでしょうか。そしてそれは、私を離れてどこかにある「答」ではなく、生涯、この私が具体化し、証明していくことだと思います。
最後に謹んで、表紙の文章をいただきたいと思います。まさに亡き人は仏であると拝まれている方の言葉です。

 

編集後記

◆亡き人は仏であるということを考える時、ついつい、私たちは、亡き人がどういう生き方、あるいは、どういう死に方をされたかとにいうことにとらわれがちですが、本当は、そのようなことは、まったく関係ないのですよね。繰り返しますが、亡き人は仏であるということは、この私の生き方において、証していくことだと教えられます。法事をつとめるということも、亡き人を慰めるためではなく、そのことひとつをお互いに確かめ合う場であると思います。
◆「参らせてもろた」から、実に大事な問題提起をいただきました。そういう意味でも、最近、あまり聞けなくなったこの言葉を、意識してでも交わしたいものです。

 


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